【競馬】競馬先進国の人間が驚愕した日本の「競馬システム」

  • 河合 力●文 text&photo by Kawai Chikara

日本の牧場ではあまり見かけない、お洒落な色合いで統一されているパカパカファームの厩舎。日本の牧場ではあまり見かけない、お洒落な色合いで統一されているパカパカファームの厩舎。『パカパカファーム』成功の舞台裏
連載●第4回

2001年の開場からわずか11年でダービー馬ディープブリランテを輩出し、日本競馬界最高峰の称号を手にした『パカパカファーム』(北海道新冠町)。この連載では、その成功の秘密を、牧場を開いたアイルランド人、ハリー・スウィーニィ氏の物語をたどりながら探っていく。今回は、スウィーニィ氏が来日後に苦労を重ねながらも、日本に居続けることを決意した理由に迫る――。

 1999年にフランスのGIサンクルー大賞を制し、その年の凱旋門賞でも2着と健闘したエルコンドルパサー。2011年に総賞金1000万ドル(約8億円。1着賞金600万ドル)の高額レースであるドバイワールドカップを勝ったヴィクトワールピサ。そして、2012年の凱旋門賞で2着に敗れはしたものの、高いパフォーマンスを見せたオルフェーヴル。今や、日本馬のレベルは世界トップクラスといっても過言ではない。

 しかし、時代を1990年にまで遡(さかのぼ)れば、日本と世界には到底埋められそうにない大きな差があった。その証拠に、日本で唯一の国際競走であったジャパンカップの成績を振り返ると、第1回の1981年から1990年までの10年間は、長距離輸送を強いられる外国馬が8勝し、"ホーム"である日本馬はわずか2勝(その後の10年間は日本馬が6勝)。掲示板(5着まで)に載った日本馬が1頭だけ、ということが5回もあった。競馬の中心地であるヨーロッパやアメリカから見れば、当時の日本はまさに「競馬後進国のひとつ」に過ぎなかっただろう。

 1990年の4月にアイルランドから来日し、開場したばかりの『大樹ファーム』(北海道大樹町)の場長に就任したハリー・スウィーニィ氏(現『パカパカファーム』代表)も、当初は日本の競馬システムや競走馬に関してほとんど知らなかったという。

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