旗手怜央が語る母との思い出と感謝の気持ち「誰よりも自分のプレーを見てくれている」 (3ページ目)
【母の影響を多分に受けている】
だから、サッカーで悩んだり、苦しんだりした時も親に弱音を吐くことはしなかった。それは15歳で親元を離れ、寮生活を送るようなった静岡学園高校時代もなおさらだった。
これも以前のコラム(第10回)で触れたが、高校3年生の時、一時期、背番号10を剥奪されたことがあった。2年生にして全国高校サッカー選手権で活躍し、高校選抜に選ばれた自分は天狗になり、"シズガク"の10番を背負って調子に乗り、監督からの声掛けを無視してしまったのをきっかけに、エースナンバーを取り上げられたのだ。
その時行なわれた練習試合では出場を許されず、副審をしていたのだが、母はその試合を見に来ていた。ただ、僕が試合に出ていなかったことについて、何かを言われたり、探られたりするようなことはなかったのを覚えている。
自分で解決できること、自分で乗り越えなければならないことは自分で対応し、改善する。父もそうした厳しさはあったが、何も聞いてこない母に、そうした強さや逞しさを教わった気がする。
また、僕自身、物事をはっきりと言うところや考えるところは母に似ているように思う。また、負けず嫌いなところは野球をやっていた父の影響だろうと思っていたが、考えれば考えるほど、妥協を許さなかった母こそが負けず嫌いであり、その影響を僕自身は多分に受けているのではないかと思う。僕ら家族をよく知る人は、性格は姉が父に似ていて、僕は母に似ているというから、きっとそうなのだろう。
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