旗手怜央が語る母との思い出と感謝の気持ち「誰よりも自分のプレーを見てくれている」 (2ページ目)
【必ず一緒に食事をしてくれた】
思い起こせば、友人の影響でサッカーをはじめた小学生の時から、送り迎えをしてくれていたのが母だった。きっと多くのチームメートたちもそうであるように、母親こそが自分のプレーを誰よりも見てくれていて、成長を感じてくれている人なのだろう。
父親が転勤で単身赴任をしていた小学生時代から、ひとりで僕と姉の面倒を見てくれていた姿を思い出す。
そんな母は、勉強ができずに怒るようなことはなかったが、ルールや家族の決めごとに対しては厳しい人だった。
思い出すのは、例えば小学生の時だ。我が家は夕方5時が門限だったが、友だちと遊んでいて帰宅時間が遅くなると、家に入れてもらえなかった。そして、いつも自分が反省したのを見計らって声を掛け、うちに入れてくれるような母だった。
また中学生時代のお昼ご飯はお弁当だったが、その日のうちにお弁当箱を洗うように言われていたのに、それを忘れてしまうと、翌朝にお弁当が用意されていることはなかった。その時も、朝に洗うように言われ、そのあと準備していた料理をお弁当箱に詰めてくれたことを思い出す。
父も厳しい人だったが、母もそうした妥協を許さない人だった。だからこそ、今の自分があると思っている。
中学生の時、スポーツ貧血になったことがあった。走ってもすぐに息切れしてしまい、走りたくても走れない時期が続いた。そのため、月に1回は血液検査をして数値を診てもらっていた。
母は食事について熱心に勉強して、何を食べたほうがいい、どういう物を摂ったほうがいいと考えて、食事を用意してくれていた。親からしたら迷惑とは思っていなかったかもしれないけど、子どもながらに「ありがたいな」「迷惑をかけているな」と思っていた。そうしたところにも、妥協しない母の強さを感じ取っていた。
同時に思い起こすのは、忙しいにもかかわらず、僕が家にいる時はひとりで食事をすることがないように配慮してくれていたところだ。どんなにサッカーの練習で帰りが遅くなった時も待っていてくれて、必ず一緒に食事をしてくれた。子どもながらに、そうした食卓がうれしく、今もひとりよりも誰かと一緒に食事をするほうが好きなのは、母が温かさと優しさを持って接してくれていたからだと思う。
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