【追悼】通訳が明かすスキラッチの素顔 高級料理よりラーメンを好み、回転寿司に大はしゃぎした (2ページ目)
【引退後も続いた日本との交流】
「たとえ今はビリだったとしても、いつかはトップに立てる」は、スキラッチの座右の銘のひとつだ。ジュビロにやってきたのもまさにこの精神からだった。W杯の得点王が、なぜ日本の、それも下位のチームに行くのかとさんざん聞かれ、イタリアでは「結局は金のために行ったのだ」と報道された。でもスキラッチはその時の心境をこう語っている。
「ジュビロは2部から1部に上がったばかりだが、俺もビリからスタートした男だ。もともと俺は上に昇るためのなんの手段も、チャンスも持っていなかった。それでもどんなスター選手よりも多くのゴールを決めることができた。ジュビロでもきっと同じことができると証明してみせたかった」
1994年にジュビロ磐田に加入、日本で約3年間プレーしたサルヴァトーレ・スキラッチ photo by Yamazoe Toshioこの記事に関連する写真を見る 実際、日本に来て2シーズン目の1995年には34試合出場して31ゴールを挙げ、得点王争いでは1ゴール差でタイトルを逃した。そして1994年に2部から昇格したばかりのチームは、スキラッチが去った1997年、ついにJリーグ優勝を果たした。
日本にいたのは約3年間だったが、彼のなかに日本の存在は大きく残っていた。
その後もレジェンドチームの一員として来日したり、ジュビロの記念式典に参加したり、また静岡や東京でいくつかのサッカークリニックも手掛けた。通訳として帯同した私は、間近でスキラッチという人物を知ることができた。かつてローマのスタディオ・オリンピコのスタンドで、彼のゴールがイタリア中を夢中にさせる(1990年イタリアW杯、イタリアはアイルランドに勝利し、W杯準決勝進出を決めた)のを見ていた私にとって、この上なく幸運なことだった。
素顔の彼はすごく愉快で、そしてスター選手には珍しい「普通」の人物だった。高級料理よりもラーメンを好み、回転寿司では子どものようにはしゃいでいた。現役時代に比べてかなり豊かになった頭頂部については「スイスのテクノロジーなんだ」と自慢していた(おかげで街を歩いても、ほとんど誰にも気がつかれなかった)。
誰かに紹介されると、彼はいつも覚えている日本語であいさつした。
「こんにちは、私はトトさんです」
ただサッカーに関してはあくまでも真摯だった。高校生に対するサッカースクールでは、コーチの言うことを従順に受け入れる選手たちの様子に、驚きと多少の苛立ちを感じたようで、「お前たち、"タマ"はついてんのか!」とどやしていた。
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