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【追悼】通訳が明かすスキラッチの素顔 高級料理よりラーメンを好み、回転寿司に大はしゃぎした (3ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko

【「魔法の夜」は永遠に】

 日本の少年チームを彼のパレルモサッカースクールに招待して、対戦させたいという夢も持っていた。

「日本の子どもたちは素直だが、でもそれだけじゃダメだ。いい子ちゃんというだけでは、残念ながら世界では通用しない。一方、イタリアの少年たちは、日本の子どもたちから礼儀正しさと組織力を学ぶことができるだろう」

 残念ながらその計画はコロナに阻まれてしまった。ただスキラッチは、また日本に行きたいと言っていた。

「次の(来日の)チャンスはカズ(三浦知良)の引退だな。カズならきっと俺のことを招待してくれる」と、よく言っていたものだ。

 その後、彼が結腸がんを患っていることを知った。久々に話した時の彼の声はいつになく弱々しかった。

「カズが引退するより先に俺自身がダメになっちまった。もうサッカーはできそうにない......」

 しかし、その後も相変わらず精力的で、奥さんのバルバラとヒッチハイクで旅するテレビのリアリティショーなどにも参加していた。だから、すっかり病気を克服したと思っていたのだが......。

 今でもイタリア代表が勝つと選手やサポーターが歌う、「ノッティ・マジケ(魔法の夜)」のフレーズで知られる『Un Estate Italiana(あるイタリアの夏)』は、もとは1990年イタリアW杯の公式応援歌であり、同時にスキラッチのテーマソングでもあった。

 スキラッチ自身も、この曲を聞いた時には、パレルモの路地裏から出発し、ボールを蹴り続け、ついにはイタリアW杯得点王にまでたどり着いた自分の姿が思い浮かんだという。

 イベントなどに彼が登場する場面ではいつもこの曲がBGMだったし、今回も彼を追悼するイタリアの番組や動画では必ずこれがかかっていた。しかし、スキラッチは以前、そっと教えてくれた。

「実はあまりにもこの曲を聴きすぎて、もう俺は耳タコなんだ」

 天国にもこの曲で送られたことに、今頃、彼は苦笑いしているかもしれない。

「Ciao Toto-san,Riposo in pace」(チャオ、トトさん。どうか安らかに)

サルヴァトーレ・スキラッチ
1964年、パレルモ生まれ。メッシーナ、ユベントス、インテルで活躍。イタリア代表では1990年イタリアW杯で6得点を挙げ得点王に輝く。1994年、ジュビロ磐田入団。1997年、まで在籍し56得点を挙げている。1997年、現役を引退。2024年9月18日、死去。

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