忘れられないEUROの名シーン ファン・バステンのボレーシュートはサッカー史に残る一撃になった (4ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki

【代役で出場したデンマークの躍進】

 2年後の1990年イタリアW杯では、イングランドサポは危険と見なされ、イングランドはグループリーグの3試合をサルジニア島で戦っている。オランダ戦を観戦に行った筆者は、試合後、事件が起きないかと夜どおし歩き回ったものだ。

 先述のとおり、その前年にベルリンの壁が崩壊。ソ連も崩壊し、多くの国が誕生した。だが紛争が終結していない国もあった。旧ユーゴスラビアとその周辺諸国である。

 イビチャ・オシム率いるユーゴスラビアは1992年欧州選手権予選を突破。本大会に向けて開催国であるスウェーデンに向かった。だが、そこまでだった。出場権を剥奪されたユーゴスラビアの選手たちは空港で足止めされ、そのまま帰国の途についた。ドラガン・ストイコビッチもそのひとり。「吐き気をもよおした」と、筆者のインタビューに答えている。

 西ドイツとオランダの話を再度持ち出せば、1990年イタリアW杯では、ミラノ・サンシーロで行なわれた決勝トーナメント1回戦で、西ドイツがオランダを下していた。西ドイツは決勝でアルゼンチンを下して優勝。そしてこの1992年の欧州選手権では、ドイツは再びオランダと同じグループを戦うことになった。勝ったのはオランダ。敗れたドイツもグループリーグで2位となり、準決勝に進出した。

 そこで両国を待ち受けていたのは、ユーゴスラビアの代役として出場したデンマークだった。グループリーグを2位で通過すると、準決勝でオランダと対戦した。当時、デンマークといえば、ミカエルとブライアンのラウドルップ兄弟の名が広く知れ渡っていた。しかし、兄のミカエルは監督のサッカーが守備的だと批判。この1992年大会には参加しなかった。

 この頃、有名選手の代表辞退は頻発した。1994年アメリカW杯にはフリットが、1998年フランスW杯にはフェルナンド・レドンド(アルゼンチン代表)が続いた。日本代表中心主義に染まる日本人には理解しがたい感覚で、まさしくカルチャーショックだった。フリットの辞退がポジションの問題だったのに対し、レドンドはトレードマークの長髪を切る、切らないで監督と揉めた。

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