長谷部誠の活躍が「日本サッカーの流れをつくった」 福田正博が欧州サッカー今季の日本人選手を総括
■ヨーロッパサッカーの今シーズンがもうすく終わりを迎える。今季は多くの日本人選手の奮闘が見られたが、福田正博氏はこの活躍をどう見ているか。引退を発表した長谷部誠も含め、その評価を聞いた。
【長谷部誠は現在の日本サッカーの流れをつくった】
今シーズンのヨーロッパサッカーは6月1日のチャンピオンズリーグ(CL)決勝で幕を閉じる。今季数多くの日本人選手が躍動したが、ハイライトは長谷部誠(フランクフルト)だろう。ブンデスリーガの最終節ライプツィヒ戦で、現役生活に別れを告げた。
今季引退を発表した長谷部誠(左)とリバプールで奮闘した遠藤航(右) photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る 浦和レッズで2002年から2007年まで149試合。ドイツではヴォルフスブルク、ニュルンベルク、フランクフルトの3クラブで通算384試合に出場したが、これはブンデスリーガの外国人選手としてはロベルト・レバンドフスキ(ドルトムント&バイエルン、現バルセロナ)と並ぶ歴代2位タイ。これほどのキャリアを積み重ねたことは、プロの門を叩いた18歳当時の長谷部を知る者としては感慨深い。
長谷部が浦和レッズに加入したのは、私の現役最後のシーズンになった2002年。藤枝東高から入団した当初の印象は、「性格的にプロの世界でやっていくのは難しいのでは」というものだった。プロの世界でやっていく選手には「人を押しのけてでも前に出ようとする自我の強さ」があるものだが、長谷部はその点で相手に譲るような優しさがあったからだ。
ただ、それはしばらくして杞憂だとわかった。当時の浦和を率いたハンス・オフト監督は遠征先にもつねに長谷部を帯同させた。ベンチ入りするわけでもないのに遠征に帯同させたのは、長谷部への期待値が高かったからだ。将来の主力になると見込み、1年目の長谷部に遠征での過ごし方を体験させながら学ばせようとしたのだ。
しかし、当人は試合に出られないのに遠征に行くのはおもしろいわけがない。それに耐えかねた長谷部が、「遠征には行かずにクラブに残って練習させてほしい」とオフト監督に直談判したと聞いて、芯がしっかりあるなと思ったものだ。いまでこそ、彼の芯の強さは誰もが知るところだが、それがあったからこそ40歳まで現役を続けられたのだろう。
長谷部のドイツへの移籍は、現在の日本サッカーの流れをつくったと言えるものだった。当時は、日本代表で不動の地位を築いた選手が海外へ移籍していた。長谷部は、日本代表初招集は2006年だが、その後は代表に定着できない時期が続いた。そのため2008年にヴォルフスブルクへと移籍した時は、「代表に定着できない選手が海外挑戦しても成功しない」という見方もされた。
だが、そうした偏見を跳ね返す活躍をクラブで見せ、その後日本代表にも定着して、長くキャプテンも務めた。長谷部という成功例が生まれたことで、日本代表以外の日本人選手へも注目度は高まり、海外移籍のハードルが下がった面があったと思う。
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プロフィール
福田正博 (ふくだ・まさひろ)
1966年12月27日生まれ。神奈川県出身。中央大学卒業後、1989年に三菱(現浦和レッズ)に入団。Jリーグスタート時から浦和の中心選手として活躍した「ミスター・レッズ」。1995年に50試合で32ゴールを挙げ、日本人初のJリーグ得点王。Jリーグ通算228試合、93得点。日本代表では、45試合で9ゴールを記録。2002年に現役引退後、解説者として各種メディアで活動。2008~10年は浦和のコーチも務めている。