家長昭博をすこぶる評価。元ファンタジスタながら理想的な指揮官がいた (2ページ目)
「ドリームチーム」
そう呼ばれたが、ラウドルップはその夢の中心にいた。
1994-95シーズンには宿敵のレアル・マドリードに移籍し、リーガ・エスパニョーラ優勝に貢献。かつてのファンには「裏切り者」と批判されたが、自由な気風はダンディズムか。その行動はとらえどころがない。
1996年には突然、日本リーグ(現在のJ2相当)のヴィッセル神戸へ移籍し、Jリーグ昇格に貢献。1997-98シーズンにはオランダのアヤックスへ移籍し、2けた得点を挙げてリーグ、カップの二冠をもたらしたが、突如として現役引退を発表した。そして同年のフランスワールドカップ、デンマーク代表として準々決勝でブラジル代表と撃ち合うゲームが最後の試合となった。
雲のように気ままで、一陣の風のように颯爽とした選手時代だった。監督としても、その本質は変わらない。
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ブレンビー(デンマーク)、ヘタフェ、マジョルカ(スペイン)、スウォンジー・シティ(イングランド)などを率いたが、型にはまることはなかった。
中堅クラスの選手が集まったチームでは、スペクタクルの実現は無理と思われた。クライフですら、「理想のサッカーを実現するには、相応の選手が要る」と、オファーを受けることはなかった。しかしラウドルップは、「どんな選手でも攻撃的に戦える。自陣にこもって守るなんてつまらない」と、イニシアチブを握る戦いに挑んだ。
ブレンビーでは若手中心でリーグ、カップの2冠を達成。ヘタフェではスペイン国王杯準優勝、UEFAカップ(現在のヨーロッパリーグ)ではバイエルンとの準々決勝で、トータルスコア4-4の撃ち合いで、チーム史に残る戦いをやってのけた。マジョルカは深刻な財政難で戦力的には厳しかったが、攻撃重視で残留に成功。スウォンジーでも攻撃戦術でリーグカップをもたらした。スペイン2部が主戦場だったFWミチュをスカウトし、その得点力を十全に引き出したのだ。
「アキ(家長昭博)にはプレーのアイデアがある。必要なのは、自由にそれを出せるようになることだ」
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