日本を破ってW杯3位。クロアチアの「黄金世代」は引退後も貢献度大 (2ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko
  • cooperation by Zdravko Reic

 2003年に現役を引退してからは、首都ザグレブで、姉のひとりとともにダボル・シューケル・サッカー・アカデミーを開いていたが、その姉が急死すると、アカデミーを閉鎖。2010年にザグレブサッカー協会の代表としてクロアチアサッカー協会入りする。2011年の6月にはUEFAのコミッショナーに選出。2012年、サッカー協会会長に選ばれ、現在は3期目である。

 ただ、残念ながら会長になってからのシューケルの評判はあまり芳しいものではない。脱税や汚職で逮捕されたクロアチアサッカー界のドン、ズドラフコ・マミッチと非常に近しい関係にあり、協会を私物化しているとの声も聞かれる。

 この世代の最大の英雄はスボニミール・ボバンだ。独立前の90年、ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合中に、クロアチアの少年がセルビアの警官に殴られていたのを見たザグレブのボバンは、警官に飛び蹴りして少年を助けた。このことで、彼は愛国者のシンボルとなった。彼はあるテレビ番組でこう述べている。

「クロアチアとは私が生きる理由だ。私は自分と同じくらいこの国を愛している。クロアチアのために私は死ねるだろう」

 ボバンは引退後、ザグレブ大学で歴史を学んだ。卒論のテーマは「ローマ帝国におけるキリスト教」。その後は長くイタリアの『スカイスポーツ』やクロアチアの放送局『RTL』のコメンテーターを務め、歯に衣を着せぬ物言いが有名であった。またジャーナリズムの世界にも入り、クロアチアのスポーツ紙『スポルツケ・ノヴォスティ』の編集長を務め、イタリアの新聞『ガゼッタ・デッロ・スポルト』にも寄稿している。

 2016年の5月には、ジャンニ・インファンティーノFIFA会長に呼ばれ、副ゼネラル・セクレタリーに就任。役員を3年務め、VARの推進に貢献した。将来的にFIFAで重要なポジションに着くと思われていたが、それよりも彼を惹きつけたのは、旧友パオロ・マルディーニからの「ミランの黄金期を一緒に取り戻そう」という誘いだった。熱い男ボバンらしい選択である。彼のミランへの愛は大きく、低迷していた古巣を助けたかったのだろう。しかしミラン首脳陣との意見の相違から、半年後にはミランを去ることになる。

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