語り継がれる中田英寿の伝説。あの日セリエAでイタリア人の度肝を抜いた (4ページ目)
また中田のすごいところは、それが単なるラッキーではないのをすぐに証明してみせたことだ。初ゴールから7分後、今度はゴール前の混戦からペルッツィがはじいたボールを、抑えのきいた見事なハーフボレーでゴールに決めた。スタジアムは総立ちになり、誰もが拍手を惜しまなかった。7番の背番号をつけ、後半7分に初ゴール、そのまた7分後にゴール。まるで運命に導かれたかのような「777」だった。
2点を返し勢いに乗った、ペルージャは夢を見た。しかし、中田に冷や水を浴びせられたユベントスは集中を取り戻し、後半20分にダニエル・フォンセカがゴール。終了間際にペルージャにPKが与えられたものの、試合は3-4で終わった。
ペルージャは負けたが、イタリアは中田を発見した。この中田の2ゴールは、間違いなく1998-99シーズンの最大の驚きのひとつだったろう。実際イタリアのサッカー誌グエリン・スポルティーヴォは、その年のサプライズ・プレーヤーに中田を選出している。
試合後、ユベントスのリッピ監督は、勝利に安堵しながらも驚きを隠せない様子でこう語っていた。
「強い選手だとは聞いていたが、まさかこれほど強いとは...」
中田がこの日放ったシュートは、単にユベントスのゴールを破っただけではなかった。彼は、イタリア人の日本人選手に対する認識の壁も破ったのである。日本人がユベントス相手に2ゴールをあげる。それはイタリア人にとって衝撃だった。
それまでイタリア人は日本のことを、金は持っているがサッカーでは後進国だと侮っていた。ピークを過ぎたスター選手を金で日本に集め、国外で日本人がプレーするのはスポンサーがらみ――。しかしこの日の中田のゴールを見た人々は思ったはずだ。
「日本のサッカーの何かが変わりつつある」
中田はイタリアでプレーした日本人のなかでは、まぎれもなくいちばんレベルの高い選手だった。ペルージャのあとに移籍したローマでは、(またもユベントスを抑え)歴史的スクデットにも貢献した。彼の前にチームの旗印フランチェスコ・トッティがいなければ、中田の活躍の幅はもっと大きかったはずである。
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