名選手が名将になった!デシャン監督の負けにくいチームのつくり方 (4ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by Getty Images

 4-4-2のコンパクトな布陣で、強固な守備、可能なかぎりゴールを直撃するダイレクトプレーである。ボール奪取後に間髪入れずディフェンスライン裏へパスを供給する、モナコのルーカス・ベルナルディの役割は、フランス代表ではポール・ポグバが担っていた。そのパスに反応するスピードスター、リュドヴィク・ジュリのフランス代表版はエムバペである。

 戦術に関しては、デシャンがプレーしたマルチェロ・リッピ監督時代のユベントスに近い。フィジカルの強さをベースにした、シンプルで力強いサッカーだ。ただ、約束事は最小限なので、ある意味誰がプレーしても違和感はない。即興で組んでも成立するスタイルと言える。そしてそれ以上に、チームの心理的な一体感を重視した。

 結果、ロシアW杯のフランス代表は対応力に優れ、どこが相手でも実に負けにくいチームに仕上がっていた。チーム一丸の結束も揺るぎない。負けにくさと一体感は、98年のチームと共通していた。

 連係に関しては全体のハーモニーではなく、人と人の間に生まれるコンビネーションに依拠していた。ポグバとエムバペのコンビでしか成立しないプレー、ジルーとグリーズマンの間にだけある呼吸、それらをパッチワークにして大会中に全体を仕上げていた。

 戦術という理論より、高い次元の個と個で生み出されるもののほうが強いと思っていたのだろう。個々のベストとベストの間にだけ成立する特殊な連係だけを残し、セカンドベストは選ばない。ある種、刹那的なカウンター攻撃に重きを置いているので、連係の最低人数であるふたりより、多くの連係を必要としていなかったとも言える。

 こうして名選手だったデシャンは名監督になったわけだが、もともと選手の時から「監督」だったのかもしれない。名馬の時から騎手だったタイプである。

ディディエ・デシャン
Didier Deschamps/1968年10月15日生まれ。フランスのバイヨンヌ出身。ナントのユースからトップへ昇格しプロデビュー。国内ではほかにマルセイユとボルドーでプレー。その後ユベントスでも数々のタイトルを獲得する活躍を見せて、チェルシー、バレンシアでもプレーした。フランス代表でもキャプテンとしてチームを引っ張り、98年フランスW杯、00年ユーロ優勝に貢献した。01年の引退直後からモナコの監督に就任。その後ユベントス、マルセイユの監督を歴任。12年からはフランス代表監督を務め、チームを18年ロシアW杯優勝に導いている

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