「優柔不断」が決め手。フランス代表をW杯優勝に導いた名将の手法 (2ページ目)
98年の大会直前まで、いや大会中もジャケ監督のメディア受けが極めてよくなかった原因の1つは、プレースタイルにあったのではないかと思う。それまでのレ・ブルー(フランス代表の愛称)の栄光は常に攻撃力と共にあり、守備的なフランス代表の成功は例がなかったからだ。
58年スウェーデンW杯で3位になった時は、レイモン・コパがいてジュスト・フォンテーヌは13ゴールのワールドカップ記録(1大会の通算得点)を打ち立てている。アルベール・バトー監督は攻撃サッカーの信奉者として有名だった。スタッド・ランスの監督も兼任していて、当時のランスはヨーロッパの強豪クラブだった。国内リーグに5回も優勝し、チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)準優勝も2回。この時代の名監督のひとりだ。
82年スペインW杯、86年メキシコW杯のベスト4は、ミッシェル・プラティニ、アラン・ジレス、ジャン・ティガナらの技巧的なパスワークで人気を博した。監督はミッシェル・イダルゴ。バトー監督下の全盛期のランスでプレーし、監督としてもバトー門下らしくテクニックを重視していた。84年のヨーロッパ選手権で優勝して勇退したが、攻撃サッカーは86年のアンリ・ミッシェル監督にそのまま引き継がれている。
ジャケ監督も当初は攻撃型の編成をしていた。優勝したキリンカップがまさにそうだったわけだ。その後方針転換してメディアの不興を買うことになったのだが、堅守は初優勝の基盤になり、レ・ブルーのプレースタイルはそこから変わった。
<優柔不断は信念だった>
ジャケ監督がメディアから批判されていたのには、プレースタイルが守備的という以外にもいろいろ理由があった。その1つが「優柔不断」である。
96年のヨーロッパ選手権を終えてからの2年間、ワールドカップ開催国のフランスには予選がなかった。そのせいもあると思うが、ジャケは毎回メンバーを変え、システムも変えていた。2年間、同じメンバー、同じシステムでプレーしたことが1度もなかった。試した組み合わせは20通りにも及び、考え得るシステムはすべて試している。左ウイングにクリストフ・デュガリーを起用する、風変わりな1トップもあった。
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