名将テレ・サンターナは美しさを尊ぶ。選手と観衆のためのサッカー (2ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by Getty Images

 一方、テレ・サンターナはトレーニングの指揮をコーチ陣に任せ、散歩するようにフィールドの周りをゆっくりと歩いているだけ。年齢差もあるかもしれないが、テレ・サンターナはスタッフとの分業体制を築いていたようだ。

 たとえば、この時のサンパウロには"もうひとりのサンターナ"、フィジコのモラシー・サンターナがいた。テレとモラシーは74年からのコンビ。パソコンに情報を打ち込んで、試合中にそれを監督や選手に見せながら作戦を伝えるモラシーのスタイルは、当時としてはかなり斬新だった。

 94年アメリカW杯予選に日本が敗れ、ハンス・オフト監督が辞任した時、後継者としてテレ・サンターナの名が挙がったのを覚えている。日本サッカー協会は本気でアプローチしたようだが、要求金額があまりにも高かったので諦めた。監督ひとりではなく"チーム・サンターナ"と契約しなければならないと考えれば、当然それなりの金額になってしまうわけだ。

<左右非対称の布陣>

 テレ・サンターナはブラジルの4つの州選手権で優勝して名将としての地位を確立したが、率いたチームとして最も有名なのは82年スペインW杯のブラジル代表だろう。92、93年のトヨタカップを連覇したサンパウロも印象的だった。全盛期のバルセロナとミランを破っている。

 黄金の4人(ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ)がいた82年のセレソン(ブラジル代表)と10年後のサンパウロの共通点を探すなら、左右非対称のフォーメーションかもしれない。

 82年セレソンのセンターバック(CB)だったオスカーによると、「特徴をつなぎ合わせただけで、即興のチームだった」。

 オスカーに基本的な配置図を紙に書いてもらったところ、システムと呼べるかどうかも疑わしいぐらい歪だったのを覚えている。一応4-4-2ということになっているが、

「エデルは今で言うウイングバックに近い。クロッサーで、FWというよりMF」

 オスカーの図では、FWセルジーニョの下にソクラテス、ジーコは右のハーフスペースだった。ボランチにはトニーニョ・セレーゾとファルカン、そして左サイドバック(SB)のジュニオールもほぼMFの位置。GKとCB2枚は普通だが、右SBレアンドロの位置も高めだった。

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