終盤は出場機会も減少。本田圭佑のイタリアへの順応を阻んだもの
オフィシャル誌編集長のミラン便り(最終回)
「ついに終わった!!」
今シーズンの最終戦が終わった時、多くのミラニスタたちはこう思っただろう。長く辛いシーズンの幕がやっと下ろされたのだ。サッスォーロとの試合は予想通り勝利することができた(結果は2-1)が、ミランは今シーズン最後の目標、ヨーロッパリーグ出場権をやはり手に入れることはできなかった(最終順位は8位)。ミランが翌シーズンのヨーロッパのカップ戦出場権を獲得できなかったのは、なんと1997~98シーズンにまで遡(さかのぼ)る。
当時、ファビオ・カペッロ監督に率いられていたミランは10位に終わりすべてを失った。ちなみにこの翌シーズンからミランベンチに座ったのが"皆さんの"アルベルト・ザッケローニで、ザックはなんと不調のシーズンから一転、ミランを優勝に導いた。今、ミラニスタたちはその時の再現を夢見ているが、これはかなり難しいといえよう。今現在は、今季優勝したユベントス(なんとヨーロッパのクラブチーム最高記録の勝ち点102ポイントで優勝)とミランの差は限りなく大きい。
サッスォーロ戦をベンチで見つめる本田圭佑(BUZZI/FOOTBALL PRESS) タイムアップの笛が鳴った時、ホッとしたのはサポーターだけではなかった。多くのミランの選手たちも安堵の息を吐いたことだろう。このコラムの主役である本田圭佑もそのうちの一人だ。本田にとってもイタリアに来てからのこの数ヵ月は試練の連続だったろう。
1月にメディアの鳴り物入りで華々しくミラノ入りした本田は、まず初戦で格下のサッスォーロに敗れる。この敗戦はアッレグリ監督の更迭につながった。その3日後のコッパ・イタリアでのラ・スペツィア戦ではミラン移籍後初ゴールを決めたものの、その後監督がセードルフに代わってからは、13試合に出場したもののたった1ゴールしか決められなかった。
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