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関東大学リーグ1部・中央大所属の金田喜稔が、木村和司がいる同2部・明治大と試合するのが「嫌だった」ワケ (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Asada Masaki

「ワシはユース代表、(2世代にわたって)2年間やってたからね。早生まれのワシや園部(勉)が年上としていて、そこに川勝(良一)とかと一緒に、和司も入ってきた。やっぱり、そうだね......、その頃からじゃないの、和司は」

 金田が卒業し、木村らの代が最上級生になった県工は、全国高校サッカー選手権大会では広島県予選で敗れて、全国大会に出場できず。木村は檜舞台で、その名をとどろかせることはできなかった。

 加えて、進学先は関東2部の明大。当時の木村は、必ずしもスポットライトを浴びながら、花道を歩いていたわけではない。

 それでも木村は、明大入学後も順調に成長を続け、大学1年でユース代表に選ばれると、翌年、大学2年にして日本代表(A代表)に初選出されるのである。

 これには金田も、「うわ、コイツ、ここまで来よったな」と驚いた。

 金田は木村に先んじること1年、同じく大学2年の時に、すでに日本代表に選ばれていた。代表デビュー年の韓国戦で決めたゴールは、今なお日本代表の最年少得点記録(19歳119日)として残っている。

 当時は、今ほど大学生の日本代表入りが珍しいものではなかった。とはいえ、10代の大学生が続けて選ばれるとなれば、話は別である。

 木村の日本代表デビュー戦(ジャパンカップのフィオレンティーナ戦)の先発メンバーを見ても、大学生は木村ひとり。他に大学生は、途中出場した金田の名前があるだけだ。

 すでに日本代表で活躍している大学生が卒業後、日本リーグのどのチームに入るのか。その行き先は当然、注目を集めた。

 先に"就職活動"が始まったのは、1年先輩の金田である。

 その進路の最有力候補と見られていたのは、地元・広島の東洋工業(のちのマツダ)だった。県工のOB会からは、金田に対して強い勧めがあったとも聞く。

 だが、「誰が勝手に決めとんじゃ。ワシの人生は、ワシが決める!」と決意した金田は、「東洋工業に入ったら、また広島かよって......。大学から東京に来てたし、源氏鶏太のサラリーマン小説ばっかり読んどった人間からしたら、そりゃ憧れは銀座か、丸の内でしょ(笑)」と、"Uターン就職"を拒んだ。

「一応、中大のエースと言われる選手は、日立か、古河か、あの頃だったら、フジタとか、三菱とか、そういうところに行ってるんですよ、みんな。ということは、どこも中大の先輩がいるし、周りは日の丸組(日本代表で一緒だった選手)ばっかり。これは、絶対おもろない。また先輩と一緒かよ、みたいな。ワシはそんなん嫌やった」

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