サッカー天皇杯は連覇が非常に難しい大会 その歴史のなか5大会連続で決勝を戦ったチームがある (3ページ目)
【連覇が難しい天皇杯の歴史】
Jリーグ発足以前も、天皇杯での連覇は難しいことだった。
1964年の東京五輪の翌65年に、日本サッカーの父、デットマール・クラマーコーチの提言によって実業団の強豪8チームが参加して日本サッカーリーグ(JSL)が発足した。サッカー界初の全国リーグだった。そして、開幕の年から東洋工業(現・サンフレッチェ広島)が4連覇を達成した。
ところが、その東洋工業も天皇杯では連覇を達成できなかった。
その後、杉山隆一がいた三菱重工(現・浦和レッズ)や釜本邦茂のヤンマーディーゼル(現・セレッソ大阪)、さらに日立製作所(現・柏レイソル)、古河電工(現・ジェフユナイテッド千葉)などが強化を進め、JSLのタイトルはこれらのチームが占めていた。天皇杯でも、1965年に東洋工業が優勝して以降1974年までの10大会、上記のチームのいずれかが優勝している。だが、「連覇」は一度もなかったのだ。
※(注)文中の開催年は「年度」であり、大会や決勝戦が元日など翌年1月に入ってから行なわれた場合も多い。
状況が大きく変わったのは、1983年に日産自動車(現・横浜F・マリノス)が初優勝してからだった。
その後、1989年までの7大会は日産と読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)が天皇杯タイトルを独占。それぞれ、一度ずつだが連覇も記録した。
1990年大会は雨中の決勝戦で松下電器(現・ガンバ大阪)がPK戦で日産を下して優勝。日産、読売のタイトル独占を打ち破ったが、翌1991年と92年は再び日産が連覇を飾っている(92年のチーム名は「日産FC横浜マリノス」)。つまり、日産は5大会連続で天皇杯決勝を戦ったのである。
1991年度・第71回大会の天皇杯入場券。歴史絵巻風のビジュアルが取り入れられたのはこの大会から(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る この時期にはJSLでも日産と読売の実力は突出していた。1983年から1991/92年シーズンまでの9大会で、読売が5回、日産が2回優勝していたのだ。
1960年代から東洋、三菱、古河などの実業団(系列も含めて同一企業の社員によるチーム)が日本サッカー界をリードしてきたが、1980年代にはその限界も見えてきており、プロ的な経営を取り入れた日産や読売の実力が上回ったのだ。
さらに歴史を遡ってみると、第2次世界大戦前の1936年から40年まで慶應義塾大学が5大会連続で決勝に進出。1938年に宿敵、早稲田に敗れたものの2連覇を2回達成している。1988年から92年までの日産と同じである(1937年、38年は現役学生だけのチームで、他の3大会は現役とOB混成の「慶應BRB」だった)。
だが、当時の日本のトップリーグだった関東大学リーグでは東京帝国大学(現・東京大学)の7連覇や早稲田、慶應の4連覇といった記録があるが、天皇杯では連覇はほとんどない。
とにかく、天皇杯での連覇というのはどの時代でも非常に難しいことなのだ。来シーズン、町田には天皇杯連覇に挑戦してみてほしいし、神戸にとっては3大会連続決勝進出というのも大記録になる。
ところで、今回の天皇杯決勝は入場者が3万1414人しか集まらず物議を醸した。Jリーグ発足後(コロナ禍で入場制限があった2020年を除いて)最低の数字だった。
原因はいろいろ考えられるだろうが、そもそも主催者である日本サッカー協会(JFA)自らが日本代表の国際試合の合間に準決勝を行なうという、天皇杯の権威を失墜させるような行為をしたのだから当然の結果であるとしか言いようがない。
著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7500試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。
【画像】芸能界リフティング女王・眞嶋優が「神技」に挑戦!連続写真ギャラリー【動画もあり】
3 / 3



























