若き天才・家長昭博が「俺って、自分が思っていた以上に、サッカー選手として成功したいと思ってたんや」と気づいた瞬間 (4ページ目)
思えば、ガンバ時代は若さもあって、感情をコントロールできず、監督と衝突したことも。途中交代に納得がいかず、そのままベンチやロッカーを通りすぎてバスに乗り込んで試合が終わるのを待っていたというのも知られた話だ。周囲からの期待と自分へのジレンマ。その"モヤモヤ"は、いつも家長につきまとった。
「当時の性格、考え方などをトータルして考えると、いい悪いは別として、自分なりに一生懸命やった結果が、その程度だったんやと思います。試合には出ていたとはいえ、そこまでの選手ではなかった、と。
ただ、明らかに若さゆえの態度はとっていたとはいえ、その頃から......これは今も変わってないですけど、『俺が監督やったら、もっと俺を使うのに』ってことはずっと思ってきました。その考え方が正解だと思っていたわけではなく、です。なんていうか、周りのレベルとか、自分がなぜ出られないのかとか、使われない理由も理解したうえでそう思っていました。だって、サッカーやから。この個性があってもいいでしょ、みたいな」
そんなふうに大分への期限付き移籍によって、自身の頭のなかが整理されつつあった同年2月。彼は開幕を間近に控えた状況で、右膝前十字靭帯損傷という大ケガを負ってしまう。だが、結果的にキャリアで初めての長期離脱は、自分を知り、心の奥底に潜む"本心"に気づくきっかけにもなった。
「人間は苦しい状況に立たされた時ほど、本質が見えるじゃないですか? 事実、僕もあの時初めて『ああ、俺って、自分が思っていた以上に、サッカー選手として成功したいと思ってたんや』って気づいたんです。
いや、それまでも僕なりに"サッカー選手としての成功"を求めていたとは思うんですよ。でも、それがどの程度のものか半信半疑だったのも事実で......。実際、ガンバ時代はさっきの話じゃないけど、今の10代(の選手)には考えられないような、ほんまにプロとしてやっていこうと思っているのかを疑われてもおかしくないような態度もとっていましたしね(苦笑)。
そんな自分だったので、大ケガをして自暴自棄になるんかなと思っていたら、いっさいの迷いなく、めちゃめちゃ真剣にリハビリに取り組んだんです。その自分を知った時に『ああ、俺って本気でピッチに戻ってまたサッカーをしたい、成功したいと思っているんや』って気がついた」
そんな自分を確認したうえで、プロになって初めて「サッカーって、こうよな!」という考えに行きついたのは、セレッソ大阪で過ごした2010年だ。レヴィー・クルピ監督のもと、ひたすらに武器で勝負することを求められた時間は、ガンバユース時代以来、忘れていた自分を取り戻すきっかけになる。
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