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若き天才・家長昭博が「俺って、自分が思っていた以上に、サッカー選手として成功したいと思ってたんや」と気づいた瞬間 (3ページ目)

  • 高村美砂●取材・文 text by Takamura Misa

「チームとしてはたくさん勝てたし、優勝もできましたけど、それに比例して自分のパフォーマンスがよかったのかといえば、全然そうじゃなかったです。実際、試合後に『今日はよかったな』って思えた試合は1試合もなかった。これだけレベルの高い選手が多いガンバで、先発で出るとか、途中出場するようなレベルに達しているのかも、最後までわからずじまいで......。

 だから、戸惑いながらプレーしていたし、自分に対してずっと『なんかわからんけど、めっちゃ足りてへんな』ってモヤモヤしていました。実際、ゴールを挙げることを意識していたわりに、ひとつもゴールを取れなかったですしね。試合を見返すと、そもそも点を取れるポジションにいないことも多かったというか。

 試合に出してもらったことで、プロのボディコンタクトやスピードには慣れましたけど、そこでボールを奪えても、攻撃に転じたあとにゴール前まで行くためのスタミナもなかったし、シュートとか、細かな技術もまったく足りていなかった。一気に結果に結びつけられるほどの余裕もなかったです。オグリさん(大黒)やアラウージョら、前の選手にボールを預けさえすれば、彼らが点を取ってくれたので、そこに頼りすぎていました」

 19歳でその悩みを持ちながら、コンスタントに公式戦に絡み、タイトル獲得に貢献していた時点で、彼が特別な存在であったのは言わずもがなだが、その言葉からも、彼が当時の自分に何ひとつ確信が持てていなかったのが伝わってくる。その後も毎年のように優勝争いを続けるガンバで試合に絡みながら、2007年には初めて日本代表に選出されてもなお、その感覚は拭えなかった。

 その「モヤモヤしていた」ものの正体が明らかになったのは、2008年の大分トリニータへの期限付き移籍だったという。前年の2007シーズン、J1リーグ27試合に出場しながらも先発出場は6試合にとどまったなかで、家長はこの年、出場機会を求めてガンバを離れる決断をする。大分入りは「最初にオファーをくれた」ことが決め手だった。

「正直、その頃もまだ自分を探していました。ただ、大分に行ってはっきりしたのは、自分はガンバというクラブにすごく大切に、守ってもらっていたってこと。当時は、怒られてばかりだったので、甘やかされていたという感覚とも違うんですけど、クラブや周りが僕をなんとかプロで戦える選手にしようと見守ってくれていたから、プレーできていたんやな、ってガンバを離れて気づきました」

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