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湘南ベルマーレのキム・ミンテは"日本サッカー用語"で流暢にコメント 来日当初の猛勉強のエピソードを語った (2ページ目)

  • 吉崎エイジーニョ●取材・文 text by Yoshizaki Eijinho

【選手の名前を覚えまくる】

 若き日の「怒り」が後の自らのキャリアを決定づけた。本人の口からはそうは言わなかったが、話を聞くにそんなことを思う。

 2014年の夏、20歳だったキム・ミンテは、ベガルタのテストを受けるべく仙台の練習場に足を踏み入れた。

 当時所属していた韓国の光云大学の監督に「行け」と言われたからだった。最初は「嫌だった」。別に日本には大した関心はなかった。『ドラゴンボール』や『「SLAM DUNK』を知っていた程度。小学6年生の時、郷里のインチョン市選抜チームの一員として遠征に行ったことがあったが、「日本にはボール扱いがうまい選手が多い」と思った程度だった。

 ただ、高卒時にはKリーグから声がかからなかった自分にとっては、数少ないチャンスでもあった。同大学は当時、3年次から中退してのプロ入りが可能だったが、監督はすぐに話をつないでくれた。高卒時に自分を好んでくれた恩師の計らいでもあった。そんなこんなで「テストを受けてこい」という話を断れなかった。

"事"はテストを受け始めた初日、そして2日目に起きた。

 当時は「大型(187センチ)だけど、ちょっと足元の技術もあるボランチ」だった練習生キム・ミンテは、練習試合に投入された。しかし、プレーしていてちょっとした怒りを覚えた。

「パスが来ない。自分にボールを回してくれれば、もっとやれるのに」

 怒りからその日の練習後に自分のなかでアクションを起こした。

「全選手の顔と名前を全部覚えたんです。試合中に名前を呼んで、パスを要求しようと。何が何でもメンバーの顔と名前を一致させる。意地でも覚えまくりました。ニックネームはわからないから名字だけをとにかく覚えて」

 当時は当然、日本語も話せない。「練習が終わってちょっと観光がてら外食」というわけにもいかなかった。10年前の話だ。「空港でスマホのSIMカードを挿し換えて日本でも使う」といったシステムもない。Wi-Fiもなく、通信手段すらなかった。だからホテルにこもって作業を続けた。

 後にチームメイトとなり、親しくもなったCBの上本大海は「タイカイ」と呼ばれていたし、加入後は自分もそう呼んだ。でも当時はそんなことはわからないから「ウエモト」と覚えた。

 そして翌日、練習試合から周囲の選手の名字を呼びまくって、パスを要求し続けた。

 結果、テストに合格。それが理由だったかどうかわからない。しかし後にコーチから言われた。

「そんな練習生、見たことがなかった」

 やる時はやる、そしてやりきる。後に「それは韓国人らしいメンタリティかもしれないですけどね」とも思うようになったが、とにかく当時はそんなことは知らない。日本人のメンタリティのなんたるかも知らなかったからだ。

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