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浦和・宇賀神友弥が引退を決意した瞬間「他人のプレーを心の底から喜んでいる自分がいた」 (3ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke

【小野伸二に「キャリアも関係ないからな!」】

── ルーキーだった2010年は、J1リーグで26試合に出場して2得点という成績を残しています。振り返ると、どんな日々でしたか?

「先ほど話題に挙げた理央にも直接言っていたのですが、『まさにお前みたいな選手だった』と。ボールを持ったら、とにかく前みたいな(笑)。後ろのことなど気にせず、一瞬でも前を向けるスペースがあれば全部、仕掛けるような選手でした」

── まさに突貫小僧のような?

「そう(笑)。でも、関根(貴大)や原口(元気)も含めて、みんな若いころはそうでしたからね。先日、僕がルーキー時代、対戦した(小野)伸二さんに向かって『ピッチに立ったら名前もキャリアも関係ないからな!』って言ったことを思い出して、冷や汗をかいたくらい(苦笑)。でも、プレーも、それくらいの気持ちでした」

── そんな血気盛んな選手が、どうやって大人へと成長していったのでしょうか?

「ロビー(ロブソン・ポンテ)のような存在の選手が『お前、違うぞ』って諭してくれました。プロの世界なので、本来であれば見放すこともできるはずなのに、本当にロビーは毎日のようにバリカンを持って、僕のことを睨んでいた(笑)。だから、いまだにロビーは来日すると、バリカンを持った写真を僕に送ってくる(笑)。そうやって本気で、熱心に『違う』『そうじゃない』と言ってくれる先輩がほかにもたくさんいました。

 同時に、ロビーは絶対に僕のことを見捨てず、ずっと『お前はいずれ日本代表になれる』って言い続けてくれた。そうした先輩たちのおかげで、自分は少しずつ変わることができたと思うし、自分自身もこのままではいけないと思ったタイミングがあったことで、人として変わっていったように思います」

── 宇賀神選手は戦う姿勢やハードワークが特徴的でしたが、サイドバックやウイングバックとして自信を得たのはいつでしょうか?

「プロ1年目から自信はありましたが、2年目に勢いだけでJ1を戦うことはできない難しさを痛感しました。3年目のときにミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督)が監督に就任して、まったく試合に出られない3カ月間を過ごし、そこから大きく成長を実感したのは、プロ4年目の2013年でした。

 ミシャに出会えたことは、『運も実力のうち』ではないですけど、僕の人生においては大きかった。あの人に出会えていなければ、こんなサッカー選手にはなれなかったと思っています」

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