武藤雄樹35歳が語る、自らのサッカー人生と残りの現役生活「まだ自分に期待している部分がある」 (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・構成 text by Asada Masaki

――今ではワンタッチゴールのイメージが強い武藤選手ですが、ドリブラーからどのようにプレースタイルが変わっていったのですか。

「大学入学当初もドリブラーとしてやっていて、1年の時にJFLで結構活躍することができて(21試合出場15ゴール)、その時はほとんどドリブルシュートを決めているような感じでした。でも、2年の頃から壁にぶつかり始めて思ったように抜けなくなって、『このままだとヤバいな』って......。もっと動き出しの質を身につけなきゃいけないんじゃないかと思って、3年くらいから佐藤寿人さんを目標にしながら、ボールを持っていない時の動きにフォーカスし始めたことがだんだん自分の力になって、強みに変わっていきました。それがうまくいくようになったのは、大学4年くらいだと思います」

――ですが、ベガルタ仙台時代に見た武藤選手には、まだゴリゴリとドリブルで突き進んでいく印象がありました。

「その頃のことも覚えています。(流経大から)仙台に入る時にも、『(オフ・ザ・ボールの動きに優れた)佐藤寿人っぽい選手が来る』っていう触れ込みで入ったんですけど、当時の仙台はしっかりとした守備からカウンターという速いサッカーをしていて、なかなかボールがないところで駆け引きをするタイミングがなく、自分の強みが生きなかった。サイドハーフで出ることも多くなったりしていたので、これならもっとドリブルを生かしたほうが自分の力を出せるんじゃないかと、もう一回昔に戻ったような感覚でやっていました。それは、その時、その時でチームのスタイルに合わせなきゃいけなかったからですね」

――それが、今度は浦和レッズへ移籍したことで......。

「浦和では、ボールを握って前でプレーする時間が長かったですからね。よりゴール前でマークを外すとか、駆け引きができる時間が増えて、何回もやり直すことができた。そこで(浦和のスタイルに)パチッとハマることができて、結果がついてきたんです。(チームのスタイルによって)自分のプレーを変えられるだけのものを培ってきてよかったなと思いましたし、そのおかげで、チームや監督が求めるものに合わせられたんだと感じます」

――浦和では2年連続ふた桁得点を記録しました。

「やっぱり僕は、高さもスピードも突出したものはないですし、特別なフィジカルがあるわけではない。何ができるかって言ったら、常に準備し続けるとか、動き続けるとか、そういったことだと思っています。

 当時のミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督)のサッカーでは、常にいいポジションを取ることがすごく求められていて、僕のやれることがマッチするなとは感じていました。どこで相手のマークを外して、どこで味方からのパスを引き出してとか、本当に頭をフル回転させてプレーしていましたし、自分の運動量なんかが生きるシャドーというポジションも、本当にマッチしていたのかなと思います。

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