Jリーグ2005年の「新人王」カレン・ロバートの今 オランダ移籍後から暗転→「浪人生活」を繰り返した波乱万丈のサッカー人生 (3ページ目)
日本にいる頃のカレンはと言えば、「ただただ漠然とJリーグ優勝を目指してるだけで、個人のステップアップなんて、あまり考えていなかった」。だが、「オランダにきて半年くらいの頃が、一番熱かったですね。プレミアリーグでやりたいと強く思ったのも、オランダにいる時でした」。
ストーク・シティやQPRからの正式なオファーは届かなかったが、「こうしてちょっと活躍すると、すぐにチェックが入るんだと知れた」ことが、カレンを俄然やる気にさせた。
ところが、である。
1年、2年とオランダでのプレーを続けるうち、自分の思いとは裏腹に、夢の実現が次第に遠のくのを感じるようになっていた。
「この世界は、やっぱり年齢もすごく大事なんで。(移籍可能なリーグのカテゴリーが)2部どころか、イギリスに行けるとしたら3部か4部って(代理人に)言われていたのが、次はさらに下がって5部か6部。1年ごとにどんどん下がっていきました」
年齢の壁を強く意識させられたのは当時、日本から18歳でフェイエノールトにやってきた宮市亮の存在だった。
「僕がプリマスからのオファーをもらったのが、21歳かな。結果的に、あの時(海外に)出なきゃいけなかったんだなって、宮市の活躍を見ていて思いましたね」
自ら「オランダにいる時が(キャリアの)ピークでした」と認めるように、カレンを取り巻く状況は、そこから徐々に暗転していく。
フェンロとの契約が満了となった2013年夏、カレンは移籍市場が閉じる8月いっぱいまでオファーを待ったが、それでも望むようなものはなく、無所属のサッカー選手となること2~3週間。「僕も結婚していて、子どももいて、さすがにどこか(所属クラブが)なきゃダメだな」と、カレンがタイへ行くことを決めたのは、「正直、しょうがなかった」からだった。
「(イギリスへ行くために)留年というか、一浪しているみたいな感じでした」
そんな失意のカレンを支えていたのは、「いずれはイギリスでプレーしたい」という強い思いだけである。
「タイのあとに韓国へ行った時も、(所属したソウルイーランドFCの)監督がスコットランド人だったので、どうにかそのチャンスを生かしたくて1年間やりましたけど、うまくいかなかった。でも、イギリスに行きたいという気持ちだけはずっとありました」
ちなみに、カレンの言う「イギリス」とは、主に「イングランド」を指してはいるが、「スコットランドのクラブにも練習参加に行ったことがあるし、それがダメなら北アイルランドでも」という範囲のことだ。
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