ジーコが吐露した鹿島アントラーズへの思い。「仕事をする最後の年になると思う」 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

私の鹿島での仕事は変わった

 チームの社長だった新宮康男氏。強い鹿島の礎を作ったのは彼だった。それから私を日本とつなげてくれたルイス・アントニオ高崎。ふたりには特に感謝している。彼らのおかげで、私は普通できないようなすばらしい体験をすることができた。

 すべてはゼロから始めなくてはいけなかったが、プロジェクトは誠実なものだった。もしうまくいけば、アジアの、いや世界のサッカーの地図も変えられるのではないかと興奮した。たぶんそれについて、私たちはいい仕事をしたと思う。この頃の私のフィジカルは毎試合出場できるコンディションではなかったが、可能な限りはプレーしようと思った。プレーできない時にはテクニカルスタッフの代わりをし、チームを助けることができた。

 そうこうしていくうちに鹿島は少しずつ結果を出せるチームへと成長していった。

 日本の2部リーグでプレーしたという経歴は、みんなを驚かせた。しかし、私にとっては特にどうということはなかった。住友金属がのちの鹿島アントラーズとなるために、最大の努力を払っていたことを知っていたからだ。だからこそ2部であれ、私は喜んでプレーすることを受け入れ、その責任を負った。

 あれから30数年が経った。

 私は現在、鹿島でクラブアドバイザーというポストについている。私に意見やビジョンを求める人を助け、選手、監督、チーム幹部をしてきた経験を生かして事実を分析することが私の仕事である。それによって鹿島が日々よくなっていくことが私の望みだ。

 それまで務めていたテクニカルディレクターというポジションでは、チームの幹部スタッフとして、選手の獲得や放出、監督やコーチとの交渉、サッカーの面ではユースからトップチームに至るまでの選手のプレーへの助言、果ては栄養管理に至るまで、すべてに関わっていた。

 だが今のアドバイザーという仕事は、私が何かを最終決定することはない。私は鹿島のためを思って、助言するだけだ。

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