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浦和レッズのレジェンド山田暢久が振り返る現役時代。「ドイツ人監督は苦手な人ばかりでした(笑)」 (4ページ目)

  • 篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko
  • 木鋪虎雄●撮影 photo by Kishiku Torao

じつはドイツ人監督は苦手だった(笑)

――2012年にミハイロ・ペトロビッチ監督が就任して、世代交代が進んだ頃でしたよね。

 そうですね。世代交代はいつかくるものですけど、それに対して気持ちが噛み合っていなかったのでつらい時期でした。

――浦和はギドさんやその後のホルガー・オジェックさんなど、ドイツ人監督のもとで一時代を築いたイメージがありますが、山田さん的にはドイツ人監督との相性はいかがでした?

 僕は基本的に苦手な人ばかりでした(笑)。ヨーロッパ系の監督は「練習でも100%を出せ」というタイプの人たちばかりなんですよ。だから僕みたいな選手は、手を抜くとすぐ見抜かれて結構怒られていました。ギドが選手として最初に入ってきた時も「ウェイクアップ!」とよく怒られていましたね(笑)。

――ギドさんが監督として浦和に戻ってきた時は、どんな心境だったんですか?

 それは嫌でしたよ。だって僕のこと、いいところも悪いところも知っているじゃないですか(笑)。でも結果も出ていましたし、チームとしてはよくなったと思います。

 ただ、浦和は昔からそうなんですけど、成績が悪くなってきたら監督が変わって、別の国の監督を連れてきたりしますよね。だから浦和としてのプレースタイルが確立されていないので、大変だろうなと思いながら見させてもらっています。

――現在はリカルド・ロドリゲス監督のもとで、そのスタイルを確立しようと頑張っているところですが、結果という面でちょっと苦労していますよね。

 いいサッカーはしていると思うんですけど、結果を出しつつやらなければいけないのはすごく大変なんですよ。ただ、運がない部分もあると思います。僕らがJ2に降格した時は「どこまでもついてないな」ということが続いたので、そうならなければいいなと思いますね。

――最後に今の浦和へメッセージはありますか?

 今はうまく結果が出ずに苦戦している時期ですが、選手たちは頑張っていると思います。今のクラブスタッフには選手を経験してきた人たちが入ってきていて、その人たちがこれからクラブをどうしようと思っているのか。

 そのビジョンはいろいろとあると思いますけど、まずは選手がサッカーに集中できて、選手にとっていい環境をたくさん作ってあげてほしいなと思います。

山田暢久
やまだ・のぶひさ/1975年9月10日生まれ。静岡県藤枝市出身。藤枝東高校から1994年に浦和レッドダイヤモンズに入団。主に右サイドバックを中心にあらゆるポジションを務め、2013年シーズンまで浦和一筋でプレーしたレジェンドプレーヤー。J1通算501試合出場25得点。J2通算39試合出場2得点。日本代表国際Aマッチ15試合出場1得点。引退後は浦和のクラブスタッフや社会人リーグの監督を務め、現在は少年サッカーチームのコーチをしている。

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