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浦和レッズのレジェンド山田暢久が振り返る現役時代。「ドイツ人監督は苦手な人ばかりでした(笑)」 (3ページ目)

  • 篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko
  • 木鋪虎雄●撮影 photo by Kishiku Torao

PKは嫌だった

――環境がよくなったという話でしたが、埼玉スタジアムをホームスタジアムとして使うようになってきたのも2003年頃からでしたよね。埼スタになったことの影響を感じましたか?

 サッカー専用のあの規模のスタジアムは、今でも国内ではなかなかないですからね。ただ、使うようになった当初は、芝がまだ根付いていなくてめくれてしまって、ピッチ自体はそんなにいいものではなかったんですよ。

 でもサポーターは近いし、キャパシティはものすごく大きいし、いい環境でやれるようになったと思っていました。実際、優勝した年はホームで負けなしだったと思うので、埼スタっていいなと思っていましたよ。

――埼スタの後押しは、ACLを優勝した2007年も印象的でした。残念ながら山田さんはケガで決勝には出られなかったんですよね。

 肉離れをして出られなかったんですよ。あの場にいられなかったのは本当に残念でした。もしあの場にいられたらなって考えることは結構ありましたね。

――決勝のセパハン戦ももちろんですが、準決勝の城南一和戦もPK戦までもつれこむ死闘でした。

 あの頃の城南は本当に強かったですよ。韓国勢とやると、削り合いみたいな試合になりがちですけど、城南はそんなことなくて、フィジカルが強く、本当にいいチームでした。「よく追いついてPKまでいけたな」と思いながらプレーしていたのを覚えています。

――PK戦での埼スタの雰囲気は凄まじかったです。

 すごかったですね。でも僕はPKを蹴りたくないって、自分から外してもらいました(笑)。PKは好きじゃないんですよね。昔はリーグ戦でも延長、PK戦があったので嫌でした。

 今でも思い出すのが名古屋グランパス戦でPKになって、お互い14人蹴って2巡目が回ってきたことがあったんですよ。当時、選手としてプレーしていたギドが2回とも外して負けたんですよね(笑)。

――そんなことありましたね。思い出深い年で2006年を挙げてもらいましたが、逆に「この年はつらかったな」という年はありますか?

 それはいろいろありますよ。1997年のホルスト・ケッペル監督時代に、僕は半分くらいサテライトのほうに行っていました。サテライトはグラウンドがなくて、河川敷でゲートボールのおじいちゃんたちより早く行って、グラウンドを確保しなければ練習ができないとか。2部練習の時は、公園の水道で体を洗って汗を流さなくちゃいけなくて、つらかった思い出です(笑)。

 あの頃はトップチームでさえ、クラブハウスがプレハブだった時代ですからね。それから引退した最後のシーズンは、自分自身ではまだやれると思っているのに試合にほとんど絡めなかったことは、選手としてつらかったです。

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