FC東京・スウォビィクが28歳で日本行きを決断した理由。「勇気は必要だったけど、結果的に最高の決断だった」 (2ページ目)
同胞カミンスキーのアドバイス
「あれは2014年の暮れだったと思う」とスウォビィクは振り返る。
「日本と密接な関係にあるポーランド人の代理人から、『Jリーグに興味はないか』と訊かれたんだ。もちろん興味はあったけど、当時はフランスのクラブからも誘われていた。それに移籍先は、J2のクラブだという。
少し迷っていたら、クジェ(クシシュトフ・カミンスキー)にも声がかかったみたいで、彼に決まった。それがクジェのジュビロ磐田への移籍だよ」
結局、スウォビィクは国内に留まることになり、ポーランドで移籍もしたが、出場機会はまちまちに。「キャリアが少し停滞しかけていた」と感じていたものの、そこで腐らずにハードワークを続け、2017-18シーズンの中盤戦からスウォンスク・ヴロツワフで定位置を掴んだ。
翌2018-19シーズンは開幕から正GKを務め、シーズンを戦い抜くと、またも日本からのオファーが舞い込んできた。
「ベガルタ仙台から誘ってもらったんだけど、その時は義理の父が亡くなったばかりで、日本という遠い異国へ移る決断がなかなかできなかった。それでも日本からの2度目のオファーだったので、これも何かの縁と感じ、妻と話し合って新しい旅に出ることを決めたんだ」
28歳の誕生日を翌月に控えた頃に、初めての海外移籍を決断した。そこは彼が生まれ育った東欧とは、文化も気候も言語も人種もなにもかもが異なる極東の地だ。彼は妻と赤ん坊の娘を連れて、まさしく挑戦の旅に出帆したのだった。
「勇気は必要だったけど、結果的にそれは最高の決断だったよ」とスウォビィクは朗らかに話す。
「クジェ(カミンスキー)と彼の妻のナタリアからも有益なアドバイスをもらっていて、それが僕らの背中を押してくれたこともある。そして実際、彼の言葉はすべてが本当だった。日本は(天災を除いて)実に安全で、食べ物は美味しく、すばらしい文化がある。人々はとても親切で、Jリーグはレベルが高い。まさにそのとおりだった」
とはいえ、最初の試合で驚いたこともある。
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