玉田圭司が影響を受けたストイチコフ、フォルランら。ミスしても「もっといいパスを出せよ、みたいな図太さがあった」 (3ページ目)

  • 井川洋一●取材・文 text by Igawa Yoichi
  • photo by Getty Images

「テクニックや器用さだけで言えば、日本人選手のほうが優れていたかもしれません。でも、それに勝るものが本当に多くて。日本だとうまい選手がよしとされますが、そうじゃないんだなと。

 また、いくらミスをしても、まったく動じないんです。それどころか、こっちがいいパスを出して彼がミスをしても、『なんだ、そのパスは? もっといいパスを出せよ』みたいな感じで(笑)。日本人だと『ごめん』となるので、真逆ですよね。世界の第一線に立つには、それぐらいの図太さが必要なんだろうなと思いました。

 あと、試合中にまったく見ていないはずなのに、ものすごいサイドチェンジを通したりとか。プレーもパーソナリティーも、彼は本当にすごかった。自分がまだプロになりたての頃だったので、なかなか一緒に試合に出られなかったんですけど、もっと成長してから一緒にやれていたら、より学ぶものがあったのかなと思います」

【サッカーはやればやるほど奥深い】

 そんな玉田も円熟期に入って加入した長崎では、逆に自分が若手にアドバイスを送る立場になった。自身4つ目のクラブには、「自分の年齢の半分くらいの選手たちから、いろいろと質問された」と言う。

「それまでは言葉で伝えることをあまりしてこなかったんだけど、長崎では、どう話せば伝わるのかをよく考えるようになりました。人によっても違うし、顔を見れば、伝わっているかどうかもわかる。理解できていないようだったら、次は言い方を変えてみたり。難しかったし、悩んだこともあったけど、すごく新鮮で楽しかったですね」

 キレのあるドリブラーが、ペップのバルセロナを見てチーム全体の構造を考えるようになり、最後は若手への伝え方を熟考するようになっていった。

「サッカーって、やればやるほど、歳をとればとるほど、奥深いものだなと感じるようになったんです。立ち位置とか、連携とか、力の抜き方とか、チャンスの始まりとか......。いや、本当に面白いなと」

 そう語る玉田は、自ずと指導者の道にも興味を持つようになっていった。
(「印象に残っている指導者たち」後編へつづく>>)

玉田圭司
たまだ・けいじ/1980年4月11日生まれ。千葉県浦安市出身。市立習志野高から99年に柏レイソルに入団。06年からは名古屋グランパスでプレーし、チームのリーグ初優勝に貢献。その後15年からセレッソ大阪、17年から名古屋、19年からV・ファーレン長崎でプレーし、2021年シーズンを最後に引退した。J1通算366試合出場99得点。J2通算164試合出場34得点。日本代表はAマッチ72試合出場16得点。06年ドイツW杯、10年南アフリカW杯メンバー。

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