「僕の人生はアントラーズのおかげで変わった」。ジーコが振り返る鹿島の30年と思い描く未来 (2ページ目)

  • 寺野典子●文 text by Terano Noriko
  • photo by Kyodo News

――その後、鹿島アントラーズは強豪というブランド力を手に入れていくことになります。

「当時、茨城県鹿島町といえば、住友金属の製鉄所が町の唯一の象徴だったと思います。それが今では『茨城県鹿嶋市といえば、鹿島アントラーズ』というところにまでたどり着くことができました。これはクラブに対して、鹿嶋市を含めた鹿行地域、ホームタウンの貢献があったから。その力がクラブを作り上げたことは、非常に喜ばしいことです。

 正直、当時の鹿島には、娯楽が少なくて製鉄所と、アントラーズしかないという感じでした。でも、そこに充実した環境、インフラを整備したことで、ジョルジーニョやレオナルドというブラジル代表レベルの世界的な選手を鹿島に連れてくることができました。彼らには鹿島アントラーズというクラブの状況を話し、クラブやチームを成長させるために仕事をしてほしいと依頼したわけです。すると彼らも、そのために自分がどうクラブやチームに貢献できるのかを考えてくれました。

 今もまだ、娯楽という意味では都会ほどではありません。でも逆にプロフェッショナルサッカープレーヤーとして、集中してサッカーに取り組める環境がここにあると思っている。だから、本当にプロとして成功したい人がいるのであれば、やっぱり、このクラブを選ぶべきだと僕は考えています。だからこそ、今後もアントラーズはよい人材を獲得するために、環境整備、インフラ整備を行ない、魅力的なクラブハウスなどを作り上げなければいけないと思っています」

――ジーコさんが勝負へのこだわりや勝負強さ、勝つことへの意識をチームへ植えつけるために大切にしたこと、心を砕いたことはなんでしょうか?

「僕が現役で培った経験や地位というものが自分自身の言葉の重みになっていることを認識したうえで、どのような発言をするかということに気を使いながら、やってきたつもりです。僕は現役時代、ブラジルで常に勝つことを求められるクラブ、そしてブラジル代表でプレーをしてきました。その後、イタリアという勝利主義の国でプレーもしました。そんなふうに自分が培った知識や経験を日本に還元するという形になり、鹿島アントラーズというクラブになったと感じています。

 当然、勝つだけではなくて、負けた苦い思い、記憶もありますし、経験もあります。そんな経験をどんなふうに還元すればいいのかも当然わかっています。自分の経験をただ僕の財産として残しても何の意味がないと考えているので、できるだけ多くの人に自分の経験を伝えることは、自分の使命ではないかと思っています。だから、できるだけ、周りの人にもいろいろな話をします。それを踏まえて、自分の考えでやってほしいというのが僕の願いでした。

 僕は一時期アントラーズを離れましたが、僕がいない間も『スピリット・オブ・ジーコ』(献身・尊重・誠実)というのを大切に継続し続けたことは、非常に重要だったと思っています。これからの未来、クラブに関わる人間が変わっても、その部分が揺らぐことなく、継続していかなければいけないと思っています」

――未来のアントラーズにとっても継続が力になると。

「今、アントラーズにはブランド力があり、地位やステイタスがあります。でも、今後このクラブに来る選手、監督、スタッフ......彼らに認識してほしいのは、『アントラーズに在籍しました』というのを、通過点というふうには考えないでほしいということ。これは一番強調したい部分でもあります。アントラーズに来る以上、常に結果を追求しなければならない。結果を出さなきゃいけないと、このクラブの歴史に自分の名を刻んで行かなければいけないという覚悟が必要なのです。クラブハウスにはタイトルを獲ったときの写真が数多く飾られていますが、選手ならば、自分がこの写真に残るようにしなくちゃいけないということを求めてほしい。自分が人々の記憶に永遠に残ることが重要だという意識と認識を持ってほしいというのは、今後の世代に対しての僕の大きなお願いです」

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