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クーデターに抗議したミャンマー人選手の今。横浜の地でミャンマー人初のJリーガーを目指す (5ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 この日本初の政治難民選手に対して真っ先に手を差し伸べた吉野はこの間、ミャンマーの国内情勢や日本の難民行政についての知識を貪欲に身に着けてきた。そして中断期間前にピエリアンアウンを練習参加に受け入れるにあたってステークホルダー、スポンサー、社内に対して熱心な根回しをこれまで施してきた。

 元々、YSCCは「ボールで笑顔、ボールで世界平和」を合言葉に地域貢献、平和貢献を熱心に行なってきたクラブである。監督のシュタルフ悠紀は、反人種差別、反性差別を掲げることで有名なドイツのクラブ、ザンクトパウリの理念に共鳴し、指導者資格であるS級ライセンスを取得するにあたってわざわざこのチームに出向いて研修を受けている。所属する選手たちのルーツもナイジェリア、ペルー、香港、など多様で、8つの国や地域に広がり、理念の表明としてトップチーム全選手の顔写真を載せた「ヘイトスピーチ、許さない」のチーム特製書類ファイルも作成している。

 チーム創設者のひとりで現在は町田ゼルビアのGMを務める唐井直(からい・ただし)は「YSCCが受け入れたのは、中区スポーツ少年団以来、企業の論理に支配されない市民クラブとして地域の課題にも向き合ってきたその歴史から見て必然であったと思う。僕が(吉野)次郎に、酷い迫害でミャンマーに帰る場所を失ったあの選手が日本でサッカーをしたいと言ったら、どうする?と声をかけたら、答えは明快でした」と語る。

 スローガンとしてダイバーシティを掲げながらも実践には程遠い企業や自治体も少なくないなか、YSCCはそれを地道に体現してきたクラブと言えよう。しかし、練習前、吉野は選手たちに向かってピエリアンアウンの背景やミャンマー情勢についてほとんど語らなかった。あくまでもピッチの上ではひとりの練習参加選手。それこそが練習参加者の望むものでもあった。

 0対10で大敗を喫した日本代表戦をベンチで見ていたミャンマーの第二GKは自分が残留した国のサッカーのレベルの高さが骨身にしみていた。YSCC横浜に関しても独自にネットで見つけた試合の動画を見て「ミャンマー代表がこのチームと試合をしたら、負けると思います」と感想を漏らしていた。であればこそ、特別扱いは欲しない。サッカー選手としてレベルの高いところに挑戦するというのは、成長する上で最も有効な方法であり、そう望むのは本能でもある。

 実際、練習が始まると、その差がむごく露見した。アップから、キーパー同士のキャッチングを経て、ゴールを背にしてのショートストップのメニューに移るとチーム所属のGKに比べて準備と対応の遅れが目立つ。ボールへの反応そのものは悪くなく、ハイボール処理に見せる跳躍からはフィジカルの強さも感じさせる。しかし、コートのサイズを広げて試合形式のメニューに移ると失点がかさむ。重心の逆を突かれることが多いのだ。3週間のブランクの影響も随所に見られた。体幹が弱まっているからか、少し軸足がよれる。本人もふがいない自身のプレーに対して悔しそうな所作や表情を幾度も見せた。初日の練習を見届けた吉野は「これまで母国で基礎的なGKとしてのトレーニングを受けてこなかったのでしょう。ただその分、ポテンシャルは感じる。土台を固めた上での伸びしろは感じますね」という感想を漏らした。

 2日目、緊張が薄れ、慣れも出てきた。初日よりは堅さが取れた動きを見せた。ただいきなりのフルメニューなので、体力が消耗するのも早い。ミニゲームの最後に足がつったのが見えた。

 汗を拭きながら、悔しそうに言った。

「反省する点は全部です。GKのトレーニングメニューがすべてミャンマーでは体験したことのないもので、とても疲れました。でも自分にとってはそれだけ貴重な時間でした。将来、ミャンマーに帰れる時がきたら、この経験を向こうの子どもたちに伝えたいです」。自分が今、日本にいる意味を考えている。ミャンマー人初のJリーガーを目指す道のりは、次々に変化する未経験の練習にまずはついて行くところから始まった。


(後編へ続く)

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