佐藤寿人、挫折と屈辱もあった21年。「正直、ひどい監督だと思った」 (3ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 あの時は釈然としませんでしたが、西村さんなりのメッセージだったと思うんです。僕はそれをくみ取れなかっただけ。まだ若かったのもあったんですが、30歳を超えたあたりから、そう思えるようになりました。今度、西村さんに会ったら聞いてみたいですね。もう忘れているかもしれないですけど(笑)」

 思い描いていた移籍にはならなかったが、C大阪へ行ったことは後悔していない。J1昇格の喜びも味わえたし、昇格を決めたあとに当時の社長から「来てくれてありがとう」と声をかけられたこともうれしかった。天皇杯では3得点と結果を出すこともでき、その活躍が認められ、翌年にJ1のベガルタ仙台への期限付き移籍を勝ち取った。

 しかしその仙台で、佐藤は生涯忘れられないほどの悔しさを味わうことになる。移籍1年目の2003年、仙台は16チーム中15位に終わり、J2へと降格した。

「2003年の仙台での降格と、広島に移籍した後の2007年の降格。このふたつは絶対に忘れられないです。なぜ、そういう結果になってしまったのか。僕がこれからもサッカーに携わっていくのであれば、あの時、なぜ失敗したのかをしっかり検証して、活かしていかなければいけない出来事だと思っています」

 2003年、佐藤はプロのキャリアで初めて、シーズンを通してピッチに立ち続けた。30試合に出場して9得点と、個人としてはまずまずの結果を残している。それでも、佐藤は「僕はJ2に落とした張本人」と、厳しく当時を振り返る。

「当時はまだ21歳でしたし、その若い選手に責任を負わすのはどうなんだ? という優しい声もありました。でも、プロであれば年齢は関係ない。FWである以上、もっとゴール奪わなければいけなかった。チャンスがなかったわけではないし、僕が決めていれば勝てた試合もあった。そう考えると、降格は僕の責任。ストライカーというポジションは、そういうものを背負わなければいけないんです」

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