佐藤寿人、挫折と屈辱もあった21年。「正直、ひどい監督だと思った」 (5ページ目)
気づけば、広島は自動降格こそ免れたものの16位に終わり、京都サンガとの入れ替え戦に回ることとなった。
「21年のキャリアのなかで、入れ替え戦はあの時だけ。1週間で2試合を戦ったんですが、本当に生きた心地がしなかったですね。サッカーって何なんだろうって、本当に訳がわからなくなっていました」
結局、京都との入れ替え戦はアウェーゲームを落とすと、ホームゲームはスコアレスドローに終わり、J2降格の悪夢を味わうこととなった。
「落ちるべくして落ちたと思います。どこかで大丈夫とだいう想いが最後まであったのかもしれないですね。でも、悪くなってからではもう遅いんです。いい状態の時にも、悪い部分は隠れている。そこを追及しなければいけなかった。そこはあの降格から学べた部分です。
結果に対して一喜一憂するのではなく、目の前のことをしっかりと見続けることが大事。これからもサッカーに携わっていくのであれば、あの経験を活かさなければいけないと思っています」
◆大黒将志は伝えたい「偶然はダメ。理屈でやるからゴールを決められる」>>
仙台での降格以上に、佐藤は責任を感じていたという。
「あの時、僕は11試合もゴールが取れなかったんです。当時は日の丸もつけていましたし、自分が結果を出さなければいけない立場なのも理解していました。取るべき人間が11試合も取れなければ、勝てるわけはありません」
一方で、11試合も点を取れなかったのに、なぜ自分が試合に出続けられるのか。自分が出ないほうが勝てたかもしれない。そんな想いも湧いていた。
「あらためてそのシーズンの公式記録を見返したんですけど、点が取れてないのにほぼフル出場だったんですよ。他のFWにとっては、そうとうストレスだったと思いますよ。
一度、ミシャ(ペトロヴィッチ監督)に『疲れているお前と、代わりのストライカーを比べた時に、それでも疲れているお前のほうが点を取れると思ったらピッチに残す』と言われたことがありました。そこまで信頼してくれてありがたかったですけど、ミシャの言葉を肯定できるのも、僕が結果を出してこそ。だから結果を出せずに恥ずかしさもありましたし、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
降格決定直後、責任を一身に背負ったストライカーは、ファンに向かって涙ながらに広島残留を宣言した。
【profile】
佐藤寿人(さとう・ひさと)
1982年3月12日生まれ、埼玉県春日部市出身。兄・勇人とそろってジェフユナイテッド市原(現・千葉)ジュニアユースに入団し、ユースを経て2000年にトップ昇格。その後、出場機会を求めてセレッソ大阪、ベガルタ仙台でプレーし、2005年から12年間サンフレッチェ広島に在籍。2012年にはJリーグMVPに輝く。2017年に名古屋グランパス、2019年に古巣のジェフ千葉に移籍し、2020年に現役を引退。Jリーグ通算220得点は歴代1位。ポジション=FW。身長170cm、体重65kg。
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