オシム・ジェフで勉強した哲学を元日本代表MFはクラブ運営に生かす (4ページ目)

  • 飯尾篤史●取材・文 text by Iio Atsushi

 オシムからの助言を胸に刻み、ベガルタでの半年間で14試合に出場した望月は2004年シーズン、ポジション奪取を誓ってジェフに復帰する。10番を与えられたことが、クラブの期待を表わしていた。

 しかし、望月はその期待に応えられなかった。

 キャンプ中、左足の付け根に激痛が走った。そこからシーズンを通して股関節痛に悩まされ、ベストコンディションに戻らなかったからだ。

 リハビリをして痛みを和らげ、練習に復帰しては痛みがぶり返す。そんな状態のまま、シーズン終盤に構想外を告げられ、契約満了。2004年シーズンの公式戦の出場は、ゼロに終わった。

 望月を襲ったのは、単なる股関節痛ではなかった。ジェフを離れたのちに、突発性大腿骨頭壊死という難病だったことが判明する。

「今度こそジェフで試合に出るという気持ちで戻ったんだけど、体が許さなかった。あの年はリハビリばかりしていて、自分の力の50%も出せなかった。本当に辛かったけど、練習を見ているのも勉強になったというか。1年目より2年目のほうが、オシムさんのスタイルが浸透していくのが感じられた。引退したら指導者になりたいという考えがあったから、そういう目でオシムさんの練習を見るのも、すごく勉強になったんだ」

 ジェフを離れた望月は、治療と懸命なリハビリの末に再びボールが蹴れるまでに復調し、2005年9月に横浜FCと契約を結ぶ。2006年8月までの契約をまっとうし、浪人生活を経て2007年1月にスパイクを脱いだ。

 指導者への転身を決めた望月がオシムと再会したのは、2007年5月のことである。エコパスタジアムで行なわれるモンテネグロとの親善試合に向けて静岡市のJステップで合宿を張っていた日本代表チームを、望月が訪ねたのだ。オシムは2006年7月にジェフを離れ、日本代表監督に就任していた。

「その頃は清水の実家にいて、すぐ近くだったから会いに行ったんだ。オシムさんは歓迎してくれて、『もう監督と選手の間柄じゃないんだ。見に来たければ、いつでも来ればいい』と言ってくれた。嬉しかったね」

4 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る