世界一のチームからJ草創期の清水へ。名DFが振り返る「心境の変化」 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 その時、争ったライバルのひとりは、現鹿島アントラーズ監督のアントニオ・カルロス・ザーゴである。だが、ロナウダンが主力になるまでに、あまり時間は必要なかった。1992年には、すでに名将テレ・サンターナ監督のもとでサンパウロの不動のレギュラーになっていた。

 ロナウダンはすべてを勝ち取った。サンパウロ州リーグ、全国リーグ、リベルタドーレス杯、そしてトヨタカップ(現在のクラブワールドカップ)にも2年連続で出場した。それらの戦いで、ロナウダンは常に中心選手だった。

 テレ・サンターナはブラジルの歴史の中でも名将として知られ、1982年には「黄金のカルテット」を率いてスペインW杯を戦っている。だが、W杯は手に入れていなかった。だから彼にとって、トヨタカップで優勝し、世界ナンバー1になることは大きな意味があった。

 彼は選手たちにまずこう言った。

「とにかく絶対にゴールを奪われてはいけない」

 その最大の壁となるのがロナウダンだった。

 1992年の東京で、サンパウロはロナウダンを守備の要としてバルセロナを破り、1993年には絶頂期のミランに勝利した。

 この試合を見て、日本の多くのチームがロナウダンに魅了された。少なくとも8つのチームが、この強力なDFと契約しようとしのぎを削った。日本だけでなく、スペインのチームも争奪戦に加わった。しかし、最終的に彼を手に入れたのは清水エスパルスだった。当時のエスパルスの監督は元ブラジル代表GKのエメルソン・レオン。彼はロナウダンを獲得する正しい道筋をわかっていたのだ。

◆「ロナウジーニョはいま...」>>

 今回の記事を書くにあたって、私はロナウダン自身から話を聞いた。彼は日本でのことを喜んで語ってくれた。日本でプレーするようになったいきさつを彼はこう説明した。

「正直言って、私の時代には国外でプレーする場合、あまり選択肢がなかった。まずヨーロッパ一択だった。サンパウロでプレーして7年目に私は初めてトヨタカップでプレーし、スペインの2つのチームが真剣に私にオファーをしてきた。そのうちのひとつはラージョ・バジェカーノで、条件はかなりよかった。

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