変身して成長。レンタル移籍後に日本代表まで上り詰めた5人の男たち (2ページ目)

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi
  • photo by AFLO

 もっとも、約2年半にもおよんだ徳島での修業は順風満帆ではなかった。時にはスタメンから外されるなどスランプも経験したが、当時徳島を率いていた美濃部直彦監督の粘り強いサポートもあり、次第に柿谷はチームの大黒柱として成長。移籍3年目の2011年には、チームの4位躍進に大きく貢献した。

「徳島ではプロの選手としてサッカーをすること、チームで試合に勝つ喜びをあらためて感じることができました。徳島で本当の意味でプロのサッカー選手としての歩みをスタートでき、3年前のことを忘れてもらうことは難しいと思いますが、早く皆さんに認めてもらえるよう、これからは大阪のピッチでセレッソのために全力で闘っていきたいと思います」

 セレッソ復帰が決まった2012年1月、柿谷はクラブを通して、そのようなコメントを寄せた。以降、別人のようになってセレッソに復帰した柿谷はチームの顔となり、翌2013年には日本代表デビュー。さらに2014年にはザックジャパンの一員として、ブラジルW杯出場を果たしている。

 エリートとして挫折を味わった柿谷とは対照的に、地道な努力を重ねながら日本代表に上り詰めた選手もいる。日立工業高校卒業後、1995年に鹿島アントラーズに入団した鈴木隆行である。

 2年目にトップデビューを飾ったものの、その後も出場機会を得られなかった鈴木は、1997年にジーコがブラジルのリオデジャネイロに創設したCFZ・ド・リオ(リオ州3部)にレンタル移籍。翌年に帰国するも、選手層の厚い鹿島ではポジションを奪えず、その後もジェフ市原(現ジェフ千葉)、CFZ・ド・リオ、川崎フロンターレと、レンタル移籍を繰り返して経験を積んだ。

 ようやく鹿島でポジションを手にしたのは、プロ入り7年目の2001年のことだった。すると、当時日本代表を率いたフィリップ・トルシエ監督が鈴木を抜擢。同年5月から6月にかけて日本と韓国で行なわれたコンフェデレーションズカップのカメルーン戦で2ゴールをマークしたことで、鈴木のキャリアは一変した。

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