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福田正博が内田篤人に見た理想の日本人SB像。圧倒的な賢さの中身 (2ページ目)

  • text by Tsugane Ichiro
  • photo by Kishiku Torao

内田篤人のラストゲームでの奮闘はこちら>>

 18年1月に鹿島に復帰したが、その背景にはロシアW杯があった。内田にとって10年W杯は出場ゼロ、14年は惨敗。18年はやり返したい思いが強かったのだろう。鹿島に復帰し、当時の大岩剛監督も積極的に内田を起用したが、やっぱりヒザが思うようにならず、代表入りはならなかった。

 内田のキャリアを振り返ると、フィジカル面の負荷が相当なものだったのだなと感じてしまう。

 大柄で屈強な選手が多く、接触プレーが激しいブンデスリーガで、判断のよさや戦術理解度、技術力に加えて、試合を重ねるなかで相手と体を当てるタイミングやポジショニングを見直して、内田はフィジカル面でのハンディを克服した。

 ただ、サイドバック(SB)というポジションであっても、身長差のある体格の大きな相手選手とヘディングで競り合うケースはいくらでも生まれる。たとえば、SBは逆サイドから攻め込まれた時にはゴール中央にポジションをスライドし、クロスボールがあがってくれば相手FWとの空中戦をしなければならない。

 こうしたフィジカルコンタクトの積み重ねに、右ヒザが悲鳴を上げた可能性は否めない。

 内田にとって、ケガからここまでの間が相当に辛かったことは想像に難くない。私の場合、現役時代にグロインペイン症候群に苦しんだが、回復を目指す道のりが右肩上がりではない故障は、やはり精神的に苦しいものがある。

 よくなったり、悪くなったりしながらでも、少しずつ回復している実感があれば励みになる。しかし、よくなったと思ったら、一気にまた振り出しに戻る。再びよくなるようにリハビリに励んで、行けるかなと思ったら、また突き落とされる。出口が見えないなかでも黙々と故障と向き合うのは、相当に辛い。

 しかも、選手は自分のトップフォームを忘れない。故障から復帰を目指す時もそこに向かっていく。これは若ければ若いほど、高いレベルを知っていればいるほど顕著になる。内田は26歳で故障を抱えたが、常にベストな状態だったそれ以前の自分を追いかけてしまったのではないかと思う。

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