山本脩斗の鹿島加入時の逸話。
「強化部も僕をよく知らなかったと思う」 (3ページ目)
山本脩斗が鹿島アントラーズのユニフォームに袖を通したのは、2014年28歳のときだった。大岩剛監督が現役時代30歳で加入した例はあるが、20代後半、30歳手前の移籍は鹿島では異例とも言える加入だった。長く左サイドバックを務めていた新井場徹氏が2012年までプレーし2013年に移籍。その代わりを期待され、当時指揮を執っていたトニーニョ・セレーゾ元監督に見出された結果だった。
守備だけでなく攻撃での貢献も際立っている山本脩斗
岩手県盛岡市出身、盛岡商業高校から早稲田大学へ進学し、大学時代には北京五輪代表候補にも選ばれている。そして、2008年ジュビロ磐田入りを果たした。しかし、原発性左鎖骨下静脈血栓症を患っていることが判明。治療に専念するまでプロ契約ではなく、契約社員としてのスタートを余儀なくされた。そして、夏前には完治し、プロの戦線に立った。
――改めてプロフィールを確認し、鹿島に来て、まだ4年目だということに少し驚きました。もっと長く在籍している印象が強くて。
「有り難いことに、よくそんなふうに言われます。周りのサポートもあり、加入した年から、すぐチームに馴染むことができました」
――磐田には6シーズン在籍したわけですが、レギュラーとプレーしたのは1シーズンくらいで、試合出場数は88試合ですが......。
「多くが途中出場です。だから、出場時間は短いと思います」
――2013年は8試合。チームもJ2降格が決まります。それもあって鹿島への移籍を決断されたのでしょうか?
「チームの降格が一番の理由というわけではなく、鹿島からオファーを頂いたことが大きかったです。僕自身、選手としてステップアップしたいという気持ちがもっとも強かったですね」
――それこそかつて、タイトルを競い合ったライバルチームへの移籍となったわけですが、そのことについては?
「歴史的に考えて、そんなふうに言われるのかもしれないとは思いましたが、僕のなかでは、ライバルチームへという意識は正直あまりなかったです。磐田であまり試合に出られていなかったので、新天地で新しいチャレンジをするという決意でした。東北出身の僕にとって、鹿島アントラーズといえば(小笠原)満男さんがいるチーム。満男さんの恩師が、僕の高校時代の恩師なので、いろんな話を聞いていましたから。満男さんに限らず、鹿島には数多くの日本代表選手がいたので、いっしょにプレーすることで自分もステップアップできるんじゃないかとも思っていました」
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