「サッカーなら、どんな障害も超えられる」。難病と闘うFC岐阜前社長の想い (2ページ目)

  • 恩田聖敬●文 text by Onda Satoshi

 今の私の症状でも、体を車椅子に固定して、わずかな指の動きを感知するスティックを作れば、電動車椅子サッカーの選手になれると思います。どんな状態でもサッカーはできるのです。私がサッカーを通じて出会った障がい者及び、周りで支える方たちは、『かわいそう』という感じは微塵もなく、みんな明るくひたむきでした。そこには障がい者と健常者の壁がない、老若男女の壁もない、誰もが自由に参加することができる世界が広がっていました。

「誰であろうが拒まない」。これこそが、サッカーの持つ本質的な力だと私は思います。その力のおかげで、前編に書いたように、サッカーの興行主からサポーターに立場を変えても、変わらずサッカーを楽しんでいます。

 ではFC岐阜社長を退任後、障がい者としての私のその後はどうなったのでしょう。

 FC岐阜の社長という仕事は、私にとって天職でした。同情で経営できるほど甘くはないとの思いで社長を退きましたが、心の奥底は未練タラタラでした。辞任後の記者会見における「やり残したことはありますか?」という記者の質問に対して、私は「やり残したことしかありません」と答えています。まごう事なき本音でした。例えようのない喪失感に、人知れず何度も泣き、自分の気持ちと折り合いをつけられない日々が長く続きます。

 しかし、嘆いても状況が好転することはありません。辞任宣言からひと月後、私は冷静にその後の身の振り方を考えました。その時の私の中には「働かない」という選択肢はありませんでした。もしかしたら、サッカーの力が私に「障がい者だって普通に働ける」と思わせたのかもしれません。そして、次のように結論づけます。

「既存の仕事の選択肢の中には、FC岐阜の社長と同じくらい、私がやりたいと思える仕事はない。ないなら自分で作るしかない!」

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