15年前にジュビロのN-BOXが
体現した「日本人らしいサッカー」 (2ページ目)
一方、当時監督を務めていた鈴木政一は、クラブ世界選手権がなくなったことで「大きなプラン変更を余儀なくされた」と打ち明ける。
「あの年、ファーストステージを制して、そのままの勢いでクラブ世界選手権に突入し、セカンドステージでは思い切って若手を起用して経験を積ませるプランを温めていたんです。ところが、クラブ世界選手権がなくなってしまったから、目標を完全優勝に切り替えて、セカンドステージもそのときのベストメンバーを送り出すことにしたんです」
2002年には完全優勝を果たしたが、その「代償」は大きかった photo by Getty Images セカンドステージでも磐田はわずか2敗しか喫しなかった。しかし、同じく2敗の鹿島アントラーズに勝ち点1差でステージ優勝を譲り、年間王者を懸けたチャンピオンシップでも、2試合合計2−2でもつれ込んだ延長戦で小笠原満男にFKを決められ、屈することになる。
「その悔しさがあって、2002年はより勝負にこだわるサッカーをして、完全優勝を成し遂げたわけです」
それは磐田の意地だった。ところが、緩やかな世代交代の機会を失った磐田は数年後、フロントと現場の意見の違いもあって、今度は急激な世代交代を敢行した。藤田俊哉、名波浩、服部年宏、福西が次々とクラブを離れ、強く、美しくもあった黄金期のサッカーが継承されることはなかった。
クラブ世界選手権の消滅は、磐田というクラブの未来にも影響を与えていたのだ。
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