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永井秀樹「何ひとつ、夢はかなって
いない。だから45歳までやれた」 (5ページ目)

  • 会津泰成●文・撮影 text&photo by Aizu Yasunari

「プロになった20歳の頃は、20代で現役を引退して次の道に進もうと考えていた。『永井さん、まだできるのにどうして!?』と、惜しまれつつやめるほうがカッコいいと思っていたし(笑)。当時は、まさか45歳まで現役を続けるなんて、夢にも思わなかった」

 20代の頃、永井が理想とした"引き際"がなかったわけではない。

 1996年シーズン、永井は当時、「スピードに乗ったら、誰にも止められない」と言われた高速ドリブルを武器に、期限付き移籍先の清水エスパルスをナビスコカップ優勝に導くと、1997年はヴェルディに復帰。翌1998年にはエースの証である背番号「10」を用意してくれた横浜フリューゲルスに完全移籍した。

 ところがこの年、フリューゲルスは親会社のひとつである佐藤工業が経営不振(のちに経営破たん)に陥って、クラブからの撤退を表明。当時、もうひとつの出資会社である全日空にも1社で支える余力がなく、Jリーグクラブの消滅という前代未聞の事態が起こった。

 その最悪の状況下にあって、チームは凄まじい快進撃を見せた。強豪クラブを次々に蹴散らして、1999年元日に天皇杯優勝を決めたのだ。このとき、永井はトップ下を務めて攻撃の中心を担った。「消滅の決まったクラブを頂点に導く」という、このうえないドラマチックな実績を残した功労者だった。

 仮に、あの時点で引退していれば、本人が望むような「まだできるのにどうして!?」という引き際になっていただろう。

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