永井秀樹「何ひとつ、夢はかなって
いない。だから45歳までやれた」 (6ページ目)
逆境と屈辱の連続だった30代
永井は、フリューゲルス消滅後も現役を続けた。しかしそれは、当初の理想とかけ離れた現役生活の始まりでもあった。
フリューゲルスから横浜F・マリノスに移ると、日本代表候補にも選ばれたが、候補止まりに終わった。そこで2001年シーズンには、恩師・松木安太郎監督が復帰したヴェルディに、永井も復帰した。2002年日韓共催W杯出場へ、代表入りを目指して活躍の場を求めたからだ。ところが、ファーストステージ終了後、成績不振によって松木監督が解任され、代表入りの夢も消えた。さらに、2002年シーズンが終わると、当時の指揮官とそりが合わなかった永井は構想外となって、ヴェルディを去った。
それから1年間、永井は浪人時代を過ごした。2004年は、最後に「親孝行をして引退しよう」と決めて大分トリニータに入団したが、故郷に錦を飾るはずのそこでは理不尽な扱いを受けて不遇のときを過ごした。
移籍先のクラブでタイトルを獲得して「優勝請負人」と呼ばれ、華やかに過ごした20代とは一転、30代は常に逆境と屈辱の連続となった。
永井は、Jリーグ年間王者をはじめ、リーグカップ優勝、天皇杯優勝を遂げた日本のトップクラブから、J2、JFL、果ては地域リーグのカテゴリーのクラブでもプレーし、現役続行を貫いた。なぜ、そこまでして現役にこだわり続けたのか。
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