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【育将・今西和男】片野坂知宏「最初の言葉は『感謝をしなさい』でした」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko  photo by Kyodo News

 母体がなく、まさにゼロから船出したこのチームは、スタートの段階からクラブ運営の経験豊富な今西和男を頼って、アドバイザーとしての指導を仰いでいる。当時の大分県サッカー協会トップは今西と東京教育大学時代の同級生であった篠永武(現・九州サッカー協会会長)で、そのパイプを活かしたのである。

 今西は広島でGMの任にあっただけではなく、日本協会の強化委員会の副委員長という重責を担っていたが、大分でのこの大役をボランティアで引き受けていた。最初の選手セレクションにも出席し、チーム編成ではサンフレッチェから現役の選手や指導者をトリニティ(創設時の名称)に送り込んで、産声を上げたばかりのチームを駆け足で昇格させるために、献身的に支えていった。今西は、その意味でトリニータ創生期の育ての親と言っても過言ではない。だからこそ、片野坂は自らが指揮官として率いることの責任の重さを感じて、口にしたのであろう。

 片野坂が今西と出会ったのは1989年、鹿児島実業高校3年のときであった。希望していた大学進学の道が残念なことに潰(つい)えてしまっていた。別の進路を鹿実の松澤隆司監督に相談すると、今西が総監督を務めるマツダへの入社を勧められたのである。松澤はそれまでにも今西と強い信頼関係にあり、ふだんから密接なコミュニケーションを取っていた。手塩にかけた教え子を預けるのならば、今西のマツダという考えがあった。

 一方で、今西は松澤の指導を高く評価しており、鹿実の選手に対しては「責任感が強くて、自分の仕事をしっかりやろうとする。それも言われたままではなく、自分の頭で考えて行動できる地頭が鍛えられている」という印象を持っていた。キャプテンをしていた片野坂のプレーも当然注目しており、「スピードはそれほどでもないが、技術はあるしメンタルも強い。広島に来てくれるのなら、ぜひ欲しい」と考えていた。松澤から「片野坂をマツダで受け入れて欲しい」と言われて、躊躇はなかった。

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