【育将・今西和男】風間八宏「骨身を惜しまず、信頼関係を築いてきた人」 (4ページ目)
「お前を初めて見たときはびっくりした。イギリスにもお前みたいな奴はいない。もっと厳しくやっていいぞ」
しかし、マツダがサンフレッチェ広島になった頃、風間はぴたりと厳しい言動を止める。
「最初はサイドバックとウイングの違いに悩んでいた奴がいて、『そんなの高さだけで変わらないよ。何 かまずかったら、監督が注意してくれるから好きにやればいいんだよ』と伝えるところから始めなければならなかった。でも、そのうちに意識が変わったと思えたんで、俺はきつくふるまうのをやめたんです。『最近、優しすぎないですか』と言われたんで、『それはお前らが下手だったからで、今はそうじゃねえよ』と返 してやりました」
やがて1994年のJリーグ1stステージの優勝を勝ち取る。このときも風間は満足せず、チェコスロバキア代表のキャプテンを務めたハシェックとともに監督のバクスターに何度も「これだけでは物足りない」と具申している。
「優勝しても、僕自身は面白くないと思うところが多々あって、いろいろ意見をしたんです。バクスター監督は『お前の言うことは分かるが、今は他のメンバーにも、このサッカーをやり続けさせる勇気を与えてやってくれ』と言うので『分かった』と。チームが変わっていくのは、すごくよく分かった。やはり今思えば、あのタイミングでバクスター監督を起用した今西さんは、チームの発展段階をしっかりと見据えていたんだと思います」
疑問があれば、優勝戦線を走っていても遠慮なくぶつけ合う。バクスターと風間と今西は互いに決して馴れ合わない緊張感の中にいた。
オフトは、日本代表監督に就任したときに風間を代表に呼びたがったが、風間はこれを拒否。サンフレッチェからはすでに高木、森保、前川と3人が招集されており、自分が抜けることを由(よし)としなかったのである。このときは今西が強化委員の立場でありながら、協会に断りの連絡を入れてくれている。
「大丈夫ですか?」「大丈夫じゃ。わしも中途半端にお前を出したない」
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