【育将・今西和男】毎年ドイツに渡り、「プロ」風間八宏を口説いた (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko   織田桂子●写真 photo by Oda Keiko

「てめえ、大人が真面目に心配してやってるのにふざけんな!」と本気で怒られた。受けても落ちるだろうというところを狙う作戦は失敗した。しばらくすると、清水東の勝沢要監督から「筑波に行かないか」と言われた。「これだ」と思った。東京教育大を前身とするこの国立大は、実業高校からはまだ推薦を取ったことがないという。ここなら落ちるだろう。「はい、受けます」と答えて受験に向かった。

 科目は面接と筆記作文である。落ちる気マンマンであったが、面接官がやたらと商業高校のことばかり聞いてくるので、思わずカチンとなった。それからは周囲が驚くほど理路整然とした受け答えをして高評価を受けてしまった。反骨心に火がついたことで作文も同様にロジカルな筆致で持論を展開して、気が付けば、筑波大蹴球部の実業高校からの入学第1号となっていた。結果的に風間は今西の後輩ということになった。

 プレーにおいても後に「中盤でアシストの前を組み立てることのできる天才」と称賛される技術の高さはカレッジサッカーの枠を超えており、大学1年で日本代表に選出される。2年、3年と進級するにつれて「今度こそ」という日本リーグの各チームの風間争奪戦が激しくなった。

 当時の筑波大の監督は松本光弘で、今西の教育大時代の1年後輩にあたる。今西は松本を通しての会談を申し出た。当然マツダに欲しい人材だと考えていた。しかし、風間からは「お会いできません」という回答が戻ってきた。

「走るスピードは滅茶苦茶速いというわけではないが、風間は少し見るだけで、ボールコントロールが上手いしクレバーな選手というのはわかっとった。リーダーシップもある。わしが直接会ってチームのことを説明して何で来て欲しいのかを説明しようと思っとったんじゃが、残念ながら断られて会えんかった。生まれ育ちと高校が静岡で、大学が関東じゃから、やっぱり広島には縁がないのかとも思った」(今西)

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