風間八宏が語る46年前のサッカー日本代表「夢の中盤」 香港の観客も拍手した若きテクニシャンたち (4ページ目)
【テクニシャンを並べた監督】
観客席にいた僕も、日本代表の「夢の中盤」に目を見張っていた。
若い読者の皆さんは、「日本が中盤でボールを支配しながら決定力不足で得点できない」という展開は見慣れていることだろう。
だが、1970年代の日本代表は、韓国はもちろん、東南アジア相手にも技術的に劣っており、「その分を走力でカバーする」というのが日本代表のコンセプトだった。つい9カ月前の1980年3月のモスクワ五輪予選でも、日本はそんな戦い方をして敗れ去っていたのだ。
しかし、スペインW杯予選に臨んだ日本代表にはテクニシャンが集まっていた。
中盤を構成したのは最初に紹介した風間、金田、戸塚の3人。守備もうまい風間が今で言うアンカーを務め、インサイドハーフとして金田と戸塚が攻撃に絡んだ。
風間は、当時を思い出して、うまい選手が集まっていて面白かったと言う。
「やりやすいし、面白いし、(ベンチから細かい戦術的指示などはなかったが)自然に分担ができてきた。僕は守備ができるんで後ろをやることになった......」
テクニシャンを並べたのは川淵監督の考えだった。
「今考えると川淵さんてすごく(考え方が)柔らかかったなって思います。普通の監督は『やっちゃいけないこと』を言う。だけど、川淵さんはご自身でもけっこう楽しんでいたみたいで、テクニックを見せると『お前、どこであんなの覚えたの?』っていうのが多かったですよ。(前田)秀樹さんがセンターバック(CB)やっていましたよね。うまい人でした。ああいう人を最終ラインで起用したのもすごいなと思います」
前田はほとんどが24歳以下のチームの中で26歳と最年長。中国戦の終盤でポジションを上げてプレーする時間帯があったが、もともと守備的MFでプレーすることが多い、テクニックのある選手だった。
当時はCBというと体が大きくて強さのある選手ばかりで、パスをつなぐよりも遠くまでクリアすることが求められていた時代だった。だが、香港の大会ではテクニックがある前田が生粋のCBだった菅又哲男(日立)の後方でスイーパー(リベロ)としてプレーしていた。
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