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風間八宏が語る46年前のサッカー日本代表「夢の中盤」 香港の観客も拍手した若きテクニシャンたち (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Takeo Goto

【大きく若返った代表メンバー】

 風間も、渡辺監督の初陣となるジャパンカップ・キリンワールドサッカーで初招集され、3試合すべてに先発している。清水商業高校(清商=現、清水桜が丘高校)を卒業して筑波大学に入学したばかりの18歳での代表デビューだった。

 風間は高校時代まで日本代表のことは特に意識していなかったという。

「(代表の試合なんて)見てないです。だって、テレビでやってくれないから静岡では見られないじゃないですか。東京育ちの都並たちは見ていたんでしょうけど。静岡の草薙でやったとしても、代表ではなくて相手を見に行っちゃう。自分がそこに入るなんて思っていないんで。高校生の時に代表に入るなんて思ってなかったです」

 サッカー王国と言われた静岡で、清商の中心だった風間でもそんな意識だったのだ。

 ちなみに、風間が言及している都並(敏史=現、ブリオベッカ浦安・市川監督)は少年時代から国立競技場などで日本代表を応援する熱狂的サポーターとして有名だった。

 香港でのW杯予選で風間とともにMFとしてプレーした金田喜稔は1977年6月に1.FCケルン(西ドイツ)戦で代表デビューしており、直後に行なわれた釜本邦茂の代表引退試合となった日韓定期戦では釜本のアシストでゴールを決めて「世代交代」を強く印象付けた(19歳119日でのこのゴールは現在でも日本代表最年少ゴールとして残っている)。香港の大会当時は、22歳ながらすでに代表の常連だった。

 こうして若返りを図っていた日本代表だったが、10月になって渡辺監督が病に倒れてしまった。新監督を選び直す時間もなかったので、日本サッカー協会強化部長だった川淵三郎(後にJリーグ初代チェアマンやJFA会長を歴任)が自ら監督となって、さらに若い選手を集めてW杯予選に臨むことになった。そのひとりが戸塚哲也だった。

 戸塚は、当時は珍しかったクラブチーム、読売サッカークラブ(現、東京ヴェルディ)育ちの異色の選手で風間と同学年。W杯予選直前のゼロックス・スーパーサッカーで初めて代表入り。ヨハン・クライフがいたワシントン・ディプロマッツと対戦している。

 こうして川淵監督の下で平均年齢21.6歳という若い日本代表が発足したのだが、香港に出発する直前に東京・国立競技場で行なわれた壮行試合では代表OBを集めた「日本代表シニア」に2-3のスコアで敗れてしまった。

 僕もこの大会を観戦するために香港に向かったのだが、正直な話、そんな状態の日本代表にはほとんど何も期待していなかった。

 しかし、香港で目撃した日本代表のパフォーマンスは期待をはるかに上回るものだった。

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