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【ワールドカップ】サッカー日本代表のブラジル戦で蘇った1998年フランス大会の感覚 ベテランライターが振り返る28年間の成長 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Takeo Goto

【28年前の感覚】

 今から28年前、日本が初めて参加することになった1998年フランスW杯の時だ。

 Jリーグが発足してから日本サッカーの強化が進み、1993年のいわゆる「ドーハの悲劇」でW杯出場は日本にとって悲願となった。そして、1997年のアジア最終予選の第3代表決定戦で、日本はイランを倒してついにW杯出場を決めた。

 大会が近づいてくると、もちろん期待は大きく膨らんだのだが、同時に不安感も強くなってきた。

 初戦の対戦相手は、W杯で2度の優勝経験(当時)がある強豪アルゼンチンだった。日本も1990年代に入ると欧州や南米の代表チームと戦うことが多くなり、親善試合(キリンカップ)でアルゼンチンと対戦したこともあった。

 しかし、親善試合とW杯の真剣勝負は違うはずだ。「それなりに戦えるはず」と信じてはいても、「もしかしたら大敗するのではないか」という不安も頭をもたげてくる。

 1995年に南アフリカで行なわれたラグビーのW杯では、日本代表がオールブラックス(ニュージーランド代表)に145点を奪われるという記録的な惨敗を喫していた。そんな悪夢がサッカーの日本代表にも起こってしまうのではないだろうか......。

 日本代表の選手たちも不安を抱いていたに違いない。

 なにしろ、当時の日本代表選手で海外のクラブでプレーした経験があるのは三浦知良(カズ)だけだった時代だ。そのカズも、大会直前にメンバーから外れて帰国してしまった。中田英寿がイタリア・セリエAのペルージャに移籍して活躍するのは、フランスW杯終了後のことだ。

 アルゼンチンのストライカーで、当時世界最高峰リーグだったセリエAで活躍するガブリエル・バティストゥータなどは、大谷翔平の言葉を借りればまさに「あこがれる」べき対象でしかなかった。

 実際には、日本は健闘した。

 こぼれ球をバティストゥータに落ち着いて決められて0-1で敗れたアルゼンチン戦でも、終了間際には同点にできる決定機を作った。続くクロアチア戦では、中田のロングクロスに中山雅史がドンピシャで合わせた先制機があった。

 だが、結局クロアチア戦でも相手のエース、ダヴォル・シューケルに決められて、アルゼンチン戦と同じ0-1のスコアで連敗。この時点でグループリーグ敗退が決まった。

 さらに日本はジャマイカにも1-2で敗れて、3戦全敗で帰国の途に就いた。

 今だったら、日本がW杯で3戦全敗に終わったら、囂々(ごうごう)たる非難を浴びるに違いない。だが、当時は帰国時にエースだった城彰二が空港で水をかけられるひと幕があったものの、多くのファンが「よくやった」と好意的に出迎えた。

 3試合とも1点差の負け......。大会前の不安感を考えれば、たしかに善戦ではあった。だが、「あの相手と再び戦ったら勝てるのか?」と問われたら、そう簡単に「勝てる」とは言えないほどの戦力差も感じさせられた。

 真剣勝負の場で戦ったからこそ見えてきた力の差だった。

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