サッカー日本代表がメキシコ相手にドロー 収穫はあったが、強豪相手に「いい試合だった」で満足する時代は終わった (2ページ目)
とはいえ、いわばメキシコ戦は、"日本の組手"で戦えた試合であり、相手が日本の嫌がることを徹底してやってくるような場面は少なかった。
渡辺は、攻撃面でもロングフィードからチャンスを作り出しており、その点でも特長を発揮したと言えるが、攻守両面で余裕を持ってプレーできたのは、そうした戦いやすさがあったのも確かだろう。
それは瀬古、あるいは途中出場で3バックの右に入った関根にも言えることだ。
与えられた役割をソツなくこなしたことに間違いはないが、主力組を脅かす、あるいはその穴を遜色なく埋められる存在かというと、まだ計りかねる部分はかなり大きい。
誰が出ても大きくチームパフォーマンスが落ちることはないという意味においては、メキシコ戦はそれなりの収穫があったのかもしれないが、このチームが目指しているのは、ワールドカップでのベスト8進出(それどころか、監督、選手によれば優勝)のはずである。
だとすれば、このレベル(ワールドカップでのベスト8進出経験を持つ、世界のセカンドグループ)の相手に勝ちきることが必要になるはずだが、引き分けたという結果だけの話ではなく、それを予感させる内容を示せていたとも言い難い。
メキシコ戦で示されたのは、よくも悪くも、"誰が出ても試合を作れる"というところまでだ。
その意味で言えば、ひとまず先発メンバーが試合を作ったあとの選手交代と、それにともなう戦略変更も物足りないものに映った。
選手交代によって、MF伊東純也とMF前田大然を両ウイングバックに配し、さらに町野を2トップに近い役割で投入するも、得点の可能性を感じさせるクロスが特段増えることはなく、決勝点を奪うべく攻撃のギアが一段上がった印象は受けなかった。
仮に試合終了間際のシーンで、DFラインの背後に抜け出したFW上田綺世がファールで止められることなくゴールを決めていたとしても、それは日本の怒涛の連続攻撃から生まれたわけではない。全体的な印象を変えるほどのものではなかっただろう。
佐野と町野についても、瀬古や関根同様、特に個人としての出来が悪かったわけではない。だが、結果的に"あの試合展開のあの時間帯に投入された選手"としては、十分な働きを見せたわけではなかった。
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