選手として最高潮の時期に日本代表に呼ばれなかった名良橋晃「トルシエのことは嫌い。今も、です」 (3ページ目)
「自分が一番いい時期だっただけに『チャンスをもらえれば......』と思っていたけど、一度もなかった。僕はトルシエのことが嫌いでしたし、今もそうです。今後も、僕がトルシエを好きになることは一生ないでしょう」
2002年日韓W杯が終わると、日本代表監督にはジーコが就任。日韓W杯で活躍した選手以外のベテランも招集され、名良橋も久しぶりに代表へ復帰した。
「ジーコさんになって、イチからチーム作りをするなかで呼ばれたので、何をすべきか、というのは明確でした。アントラーズの選手として、他の選手にジーコさんのサッカーを伝える、ということです。
(自分は当時)31歳で、代表メンバーのなかでは年齢も上のほうだったので、4年後のドイツW杯のことまでは考えられなかったですけど、代表に呼ばれている間は、自分の仕事を全うしたいと思っていました」
名良橋は、秋田豊らとともにジーコジャパンのベース作りに貢献。2003年6月にはコンフェデレーションズ杯を目前にして、キリン杯でアルゼンチンとパラグアイと対戦することになった。
フランスW杯で対戦したときとは異なり、アルゼンチンは最初からエンジン全開で攻めてきた。ハビエル・サネッティ、パブロ・アイマール、ハビエル・サビオラら欧州のクラブでプレーするタレントたちが仕掛けてくる猛攻に、日本は防戦一方となって1―4で敗れた。
すると、3日後のパラグアイ戦は最終ラインが総入れ替えとなり、名良橋はベンチで戦況を見つめていた。
「(アルゼンチン戦の)4失点は最終ラインの責任だ、と見られるのは当然のこと。だから、パラグアイ戦はテスト的な意味で最終ラインを替えたんだと思います。
そのパラグアイ戦は、0-0の引き分けでした。でも、内容は悪くなかった。
その後、コンフェデ杯が始まって、初戦のニュージーランド戦ではもう1回、(当初のメンバーで)やらせてもらえると思っていたんですが、元には戻らなかった。この時、最終ラインは(パラグアイ戦のメンバーで)もう代えないんだなって思いましたね。
悔しさは当然ありましたけど、ジーコさんが選んだメンバーなのでリスペクトして、(自分は)アントラーズで結果を出していこう、と割り切りました」
以降、日本代表の右サイドバックは加地亮や駒野友一らが頭角を現わしていく。
「加地くんをはじめ、いいサイドバックが出てきたし、(自分も)34歳という年齢でもあり、潮時とまではいかないですけど、代表では(後進に)バトンを渡す時期なのかなと思っていました」
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