検索

選手として最高潮の時期に日本代表に呼ばれなかった名良橋晃「トルシエのことは嫌い。今も、です」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 あの舞台に立てたのは、自分たちだけの力ではなく、多くの人の支えがあってのもの。その人たちのためにも、3試合もっと全力でやらなきゃいけなかった。遅いよって思われるかもしれないけど、今もすごくそう思っています」

 結果はともなわなかったが、得るものが多かったW杯だった。名良橋は攻撃力を含めて、さらに個の質を高めていかないと2002年日韓W杯の舞台には立てない、という自覚を持って鹿島アントラーズ戻った。

 そして2000年、アントラーズはリーグ戦、ナビスコ杯(現ルヴァン杯)、天皇杯の三冠を達成。名良橋もプレーヤーとしての自信を深めていた。しかし、フランスW杯以降、代表から声がかかることはなかった。

フランスW杯のあと、選手として最高潮の状態にありながら日本代表には招集されなかった名良橋晃 photo by J.LEAGUE/J.LEAGUE via Getty ImagesフランスW杯のあと、選手として最高潮の状態にありながら日本代表には招集されなかった名良橋晃 photo by J.LEAGUE/J.LEAGUE via Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る 日本代表は、指揮官にフィリップ・トルシエが就任。ドラスティックにチーム編成を変えていた。

「この頃(の自分)は、コンディションも、パフォーマンスもよくて、選手としては一番いい時期でした。でも、代表には呼ばれず、本当に悔しかったですね。

 ウイングバックには明神(智和)くんとか、シゲちゃん(望月重良)とか、(本来は)ボランチの選手が入っていたので、(監督が)そういう役割を求めているのはわかっていたんです。でも、攻撃的なプレーが自分らしさだと思っていたので、それを変えるのは嫌だった。

 めちゃくちゃ葛藤はあったんですけど、それがアントラーズのスタイルでもあったので、自分を変えてまで、というのは違うなと。自分のプレーを最大限出して呼ばれないなら、しょうがないと思っていました」

 トルシエ率いる日本代表は、1999年のワールドユース選手権(現U-20W杯)や2000年のシドニー五輪で活躍した若い選手たちが中心となっていった。その一方で名良橋は、代表に招集されない悔しさがモチベーションにもなり、アントラーズではいいプレーを見せ続けていた。それゆえ、名良橋は「最後に選ばれるかもしれない」とわずかな可能性に賭けていた。

 だが、2002年日韓W杯の日本代表メンバー発表でも、彼の名前が呼ばれることはなかった。

2 / 4

キーワード

このページのトップに戻る