選手として最高潮の時期に日本代表に呼ばれなかった名良橋晃「トルシエのことは嫌い。今も、です」 (4ページ目)
しかし当時、名良橋が最も衝撃を受けた存在は、2006年のW杯イヤーにアントラーズ入りした内田篤人だった。内田は入団早々、指揮官のパウロ・アウトゥオリから高い評価を受け、クラブ史上初となる高卒ルーキーでの開幕スタメンを果たした。
「(内田については)正直、すごい選手が入ってきたなぁと思いました。自分はまだレギュラーで、という気持ちでいたんですけど、篤人が開幕戦でスタメン出場。物怖じすることもなく、堂々とプレーしていた。かわいい後輩だし、お互いに刺激し合いながら(アントラーズの)右サイドをふたりで強くしていければと思っていましたが、本当に怖い存在で、強烈なライバルでした」
その年、内田はアントラーズの右サイドバックのレギュラーに定着。名良橋はリーグ戦の出場が3試合にとどまった。同シーズン終了と同時に、名良橋はアントラーズから契約を更新しない通知がなされた。
名良橋はジョルジーニョから受け継いだ背番号2を内田に託した。
「篤人には可能性を感じていたし、アントラーズの右サイドバックの2番を背負ってほしかった。その後もアントラーズの主力としてプレーし、海外へ移籍。(ドイツの)シャルケで活躍するなど、世界に羽ばたいてくれた。それは、うれしかったですね。(あとを託した)オジさんの自慢でした(笑)」
2007年、名良橋は湘南ベルマーレに移籍したが、自分の思うようなプレーができず、契約は半年で終わった。そして翌2008年2月、現役引退を発表した。
「自分の持ち味は攻撃的なプレー。そのプレーを貫くことでサッカー選手として成長させてもらったので、そこは絶対に外せない。それができないならやめたほうがいいと思ったので、スパっと引退を決めました」
アスリートとして、頑なまでに自らを貫くという哲学。それを貫き通すとなれば、飛び抜けた能力やプレーの質がないと難しい。名良橋が何歳になっても攻撃力を磨き続けたのは、そのためだ。
だからこそ彼の存在は、日本を代表する超攻撃的サイドバック――その象徴のひとりとして、今なお語り継がれている。
名良橋は現在、解説者や都内中学校のサッカー部のコーチをしている。多様性を持ちながらも腹をくくった個性を重要視。指導する中学生のなかから、日本はもちろん、世界へ通じる選手を育成していきたと考えている。
現役だった頃の自分のように――。
(おわり/文中敬称略)
名良橋 晃(ならはし・あきら)
1971年11月26日生まれ。千葉県出身。高校卒業後、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の前身となるJSLのフジタ入り。1994年にJリーグ昇格後も、チームの主軸として活躍。日本代表にも招集される。その後、日本代表への定着を目指して、1997年に鹿島アントラーズに移籍。1998年フランスW杯出場を果たす。鹿島でも攻撃的なサイドバックとして奮闘し、「常勝軍団」の一員として活躍した。2007年、古巣の湘南ベルマーレに移籍後、2008年2月に現役引退。国際Aマッチ出場38試合。現在はサッカー解説者、指導者として奔走している。
W杯ヨーロッパ予選、クラブW杯
2025明治安田Jリーグ、セリエA、ラ・リーガ、リーグ・アン、ベルギーリーグはDAZNでライブ配信!
「DMM×DAZNホーダイ」なら1,270円お得!
U-NEXTでE-1選手権、プレミアリーグ、ラ・リーガ、FAカップやコパ・デル・レイなど配信
下記リンクよりお得に「サッカーパック」を視聴!
>>> 「U-NEXT サッカーパック」をいますぐチェック <<<
フォトギャラリーを見る
4 / 4